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秋の大徳寺散策H251007




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大徳寺 北大路通 大徳寺前交差点 大徳寺 北大路通 大徳寺前交差点 

朝鮮通信使ゆかりの地

 近世の大徳寺には朝鮮国の外文使節団が四度滞在している。最初は一五九〇(天正十八)年のことである。この時、朝鮮・中国へ侵略を準備していた豊臣秀吉は朝鮮国王の朝貢入洛を求めた。これに対して対馬島主らが「秀吉の天下統一礼賛」に名目をすり替えて使節団派遣を朝鮮側に依頼し、実現にこぎつけた。
一行約三百名は同年七月二一日に大徳寺入りし、総見院などに宿泊した。やがて秀吉の命令で文禄・慶長の役(壬辰倭乱)が始まる。
 一六〇七(慶長十二)年、戦後始めての朝鮮使節団約五百名が当寺に宿泊した。徳川家康の国書に対する朝鮮国王の回答国書を携行し、あわせて戦中の民間被虜人を連れ帰ることが目的だった。通信使の正使らは天瑞院、その他の随員は総見院、真珠庵、護衛の対馬藩主や五山僧は興臨庵、聚光院、大仙院などで宿泊した。京都所司代は蹴鞠や猿回しを呼んで歓待した。三度目は一六ー七(元和三)年、四度目は一六二四(寛永元)年、で、宿館には連行されていた被虜人が訪れ、帰国を促した通信使の随員たちから家郷の消息を聞いて慟哭する場面もあった。
大徳寺 北大路通 大徳寺前交差点 付近観光案内図 大徳寺 北大路通 大徳寺前交差点 付近観光案内図 

現在地は中央の赤四角で、この案内図は大徳寺交差点から塀沿いに北上する大徳寺通(旧大宮通)の角にある。大徳寺通を北上すると総門があり、左折すると勅使門、三門があるが、北大路通を進み南門から大徳寺に入る。
北大路通を大徳寺沿いに西進 北大路通を大徳寺沿いに西進 
北大路通 右折して大徳寺の南門へ 北大路通 右折して大徳寺の南門へ 
大徳寺 南門 大徳寺 南門 

 臨済宗大徳寺派の大本山で龍寶山と号する。
 鎌倉時代末期の正和4年(1315)に大燈国師宗峰妙超禅師が開創。室町時代には応仁の乱で荒廃したが、一休和尚が復興。桃山時代には豊臣秀吉が織田信長の葬儀を営み、信長の菩提を弔うために総見院を建立、併せて寺領を寄進、それを契機に戦国武将の塔頭建立が相次ぎ隆盛を極めた。
 勅使門から三門、仏殿、法堂(いずれも重文)、方丈(国宝)と南北に並び、その他いわゆる七堂伽藍が完備する。三門は、二階部分が、千利休居士によって増築され、金毛閣と称し、利休居士の像を安置したことから秀吉の怒りをかい利休居士自決の原因となった話は有名。本坊の方丈庭園(特別名勝・史跡)は江戸時代初期を代表する枯山水。方丈の正面に聚楽第から移築した唐門(国宝)がある。
大徳寺 黄梅院 大徳寺 黄梅院 

拝観はできない。

 大徳寺の塔頭の一つで、織田信長が父・信秀の追善菩提のため、永禄五年(一五六二)に羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)に命じて建立した小庵に始まる祝女俶和尚を開祖に迎え「黄梅庵」と名付けられた。
 天正十四年(一五八六)には秀吉により本堂と唐門が、天正十七年(一五八六)には毛利元就の子・小早川隆景により庫裏・表門が改築され、この年に「黄梅院]と改められた。庫裡は日本の禅宗寺院において現存する最古のものといわれている。
 秀吉の希望により千利休が作庭した枯山水の直中庭のほか、破頭庭、作仏庭など禅寺の風情ある美しい庭園を有している。
 本堂の襖絵「竹林七賢図」は雪舟の画風を継ぐ雲谷等顔の代表的な水墨画で、重要丈化財に指定されている。また、書院には干利休の茶道の師である武野紹鴎好みの茶室・昨夢軒がある。
 墓所には、織田信秀、毛利元就夫妻、元就の息子三兄弟、信長の次女とその夫・蒲生氏郷、毛利一族などが祀られている。
大徳寺 黄梅院 大徳寺 黄梅院 
大徳寺 黄梅院 大徳寺 黄梅院 
大徳寺 龍源院 大徳寺 龍源院 

 大徳寺の塔頭の一つで、大徳寺南派の本庵である。
 文亀二年(一五〇二)に大徳寺第七十二世住職・東渓宗牧を開山として、能登(現在の石川県)の領主・畠山義元が豊後(現在の大分県)の大友義長らとともに創建した。
 方丈、玄関、表門(すべて重要文化財)はいずれも創建当初のもので、方丈は大徳寺山内最古の建物といわれ、禅宗の典型的な形式を示している。
 方丈の南、東、北に趣の異なる三つの庭園があり、北側に広がる龍吟庭は、苔の上に三尊石が建つ須弥山式枯山水の名庭で、室町時代の作と伝えられている。南庭(方丈前庭)は、白砂の大海に苔と石組で鶴亀を配した蓬莱式の庭園、また、東の東滴壷は日本最小の石庭といわれ、一滴の波紋から大海原の広がりをイメージさせている。
 このほか、庫裏の南側には聚楽第の礎石を配した阿吽の石庭がある。
 寺宝として、豊臣秀吉と徳川家康が対局したと伝えられる四方蒔絵の碁盤、天正十一年(一五八二)の銘がある種子島銃などを蔵している。
大徳寺 龍源院 大徳寺 龍源院 
大徳寺 龍源院 大徳寺 龍源院 
大徳寺 南門からの参道突き当りの勅使門 大徳寺 南門からの参道突き当りの勅使門 

突き当りの右手に総門がある。
大徳寺 総門 大徳寺 総門 

総門を出た所は大徳寺通(旧大宮通)で、右折すると北大路通の大徳寺前交差点に着く。
大徳寺 山内図 大徳寺 山内図 

現在地は勅使門の東、総門寄りである。図で赤い建物は三門で、その下が勅使門である。
大徳寺 勅使門(重要文化財) 大徳寺 勅使門(重要文化財) 

三門前にある、前後唐破風、左右切妻、屋根桧皮葺の四脚門、後水尾天皇より拝領したと伝えられる。
大徳寺 平康頼之墓 大徳寺 平康頼之墓 

総門から勅使門を経て進んだ角にある。

平判官平康頼は、平家打倒の鹿ヶ谷の陰謀の首謀者の一人として、鬼界ヶ島に流された。一人だけ赦免されなかった俊寛の逸話でも有名である。

大徳寺は鎌倉時代末期の14世紀初めの創建なので、何故ここに平康頼の墓があるのかは分からない。
大徳寺 三門(重要文化財) 大徳寺 三門(重要文化財) 

三門前には柵が設けられており、近づくことが出来ない。平康頼の墓の裏には興臨院、瑞峯院などの由緒ある塔頭があり、3年前に大徳寺に来た時に見物したので今回は割愛した。

 応仁の乱後、一休禅師の参徒連歌師宗長等が一階部分を寄進、のち千利休居士により二階部分が設けられ金毛閣と名づけられた。
 三門とは、龍宝山の門、三門とは、三解脱門(空門・無相門・無作門)のこと。一端、三門をくぐり境内に入る者は、金毛の獅子となって下化衆生せんことを。
大徳寺 仏殿(重要文化財) 大徳寺 仏殿(重要文化財) 

 当山第一世大現国師により創建せらるるも応仁の乱にて消失、一休和尚等によって再建されるも、寛文5年(1665)那波常有によって改めて建造。
大徳寺 仏殿(重要文化財) 大徳寺 仏殿(重要文化財) 

法堂前から見た仏殿で、柵があるため近寄ることはできない。
大徳寺 法堂(重要文化財) 大徳寺 法堂(重要文化財) 

 正中2年(1325)夏、宗印禅者を檀越として修造を始める。これまた応仁の兵乱によって消失。一休和尚、仏殿を再建されて後、仏殿と兼用であった。
 寛永13年(1636)、開山国師三百年遠諱に当たり、江月和尚の参徒、小田原城主稲葉丹後守正勝、正則父子により現在地に再建。
 天井の龍は、狩野探幽35歳の筆による。
大徳寺 宗務本所 大徳寺 宗務本所 

突き当りを左折すると織田信長の総見院、近衛家廟所などがあるが、前回見物しているので今回はここで引き返すこととした。
大徳寺 総門前の角で右折、参道を南下して南門へ 大徳寺 総門前の角で右折、参道を南下して南門へ 
北大路通 大徳寺 南門前 熱中症計は警戒 北大路通 大徳寺 南門前 熱中症計は警戒 

現在時刻は10:10で、熱中症計は、温度は28.9℃、湿度は60%である。

北大路駅では時刻は9:35で、熱中症計の温度は26.2℃、湿度は57%、注意であった。始めは厚かった雲も切れて青空が広がってきたことから温度も高くなってきた。



 
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