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大坂城公園 大坂城公園城内詰所
西の丸庭園から戻ると正面に見え、赤レンガ塀に囲まれている。 |
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大坂城公園 南仕切門跡・太鼓櫓跡
二の丸の西と南の区域は石垣によって仕切られ、通路にあたるこの個所に建っていたのが南仕切門である。また門の西側石垣の上には太鼓櫓とよばれる二層の櫓があり、ともに徳川幕府による大坂城再建工事の最終段階にあたる寛永5年(1628)に創建されたと考えられる。太鼓櫓は城内の櫓のうち最も小規模で、中に太鼓か納められていた。ここには太鼓坊主とよばれる僧形【そうぎよう】の役人が交替で詰め、彼らは香【こう】をたいて時刻を計り、城内勤務の大名や旗本以下の召集や交替、あるいは緊急時に太鼓を打ち鳴らした。いずれの建物も慶応4年(=明治元年、1868)、明治維新の大火によって焼失した。 |
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大坂城公園 南仕切門跡・太鼓櫓跡 |
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大坂城公園 石山本願寺推定地
明応五年(。四九六)に、本願寺八世蓮如が生玉庄の大坂に大坂坊舎を建立した。これは現在のところ「大坂」の地名が史料上に現われる初例である。
「天文日記」によると大坂坊舎は生玉八坊のひとつ法安寺の東側に建立されたといわれ、当時は小堂であったと考えられる。
その後細川氏をはしめとする諸勢力との権力闘争の中で大坂の重要性か増すとともに、天文元年(一五三二)に六角定頼と法華宗徒により山科本願寺が焼き打ちされるに及んで、本願寺教団の本拠である石山本願寺に発展した。
石山本願寺周辺は、山科と同様に広大な寺内町が造営された。この造営か現在の大阪の町並みの原形となったと考えられる。
その後十一世顕如の時代に、信長との石山合戦に敗れ、石山本願寺を退去した本願寺教団は、鷺森、貝塚、天満を経て京都堀川に本拠を移転する。
一方、石山本願寺跡には豊臣秀吉によって大坂城が建設される。この時に、大規模な土木工事により地形的にかなりの改造が加えられたと考えられる。さらに大坂夏の陣ののち徳川大坂城が建設されるに際して、再び大規模な土木工事が行われた。 このような状況のため、石山本願寺跡の正確な位置や伽藍跡についてはいまだ確認されていないが、現在の大坂城公園内にあたることは確実と考えられている。 |
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大坂城公園 石山本願寺推定地 |
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大坂城公園 桜門 |
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大坂城公園 桜門 |
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大坂城公園 豊国神社
桜門の向かいにある。 |
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大坂城公園 豊国神社 豊臣秀吉像
かつては中之島に鎮座していた。秀吉のほか豊臣秀頼、豊臣秀長も祭神とする(京都市の豊国神社は秀吉のみが祭神)。
明治12年(1879年)11月 京都市の豊国神社の別社として創建、大正10年(1921年)に独立した。当初は中之島公園の大阪市中央公会堂がある地点に鎮座しし、昭和36年に現在地に遷座した。
昭和18年に戦時供出された秀吉像は平成19年に復元された。 |
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大坂城公園 豊国神社 |
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大坂城公園 豊国神社 |
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大坂城公園 桜門から本丸広場へ |
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大坂城公園 桜門から本丸広場へ |
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大坂城公園 本丸広場 桜門
重要文化財 桜門
本丸の正門にあたる。徳川幕府による大坂城再築工事が行われていた寛永3年(1626)に創建されたが、慶応4年(=明治元年、1868)に起きた明治維新の大火によって焼失し、明治20年(1887)に陸軍が再建し現在に至る。左右の塀も桜門再建にあわせて新築されたが、戦後に台風の被害を受けて倒壊し、昭和44年(1969)に復元されている。桜門の名称は豊臣秀吉が築いた大坂城以来のもので、当時二の丸に桜の馬場とよばれる場所があったことから、門付近に植えられた桜並木にちなんで命名されたと考えられる。ただし豊臣時代の大坂城は、徳川幕府再築の今の大坂城とは地形や構造が大きく異なり、桜門を含む本丸への入口は現在よりも西にあり、入る方向も違っていた。なお門の両脇に見える巨石ぱ龍虎石【りゅうこいし】と呼ばれ、江戸時代には、雨が降ると右に龍の姿が、左に虎の姿がそれぞれ現れるといわれた。 |
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大坂城公園 本丸広場 桜門 銀明水井戸の井筒
この井筒は元来、本丸に建つ旧陸軍第四師団司令部【だいよんしだんしれいぶ】庁舎(旧大阪市立博物館)の裏手にある銀明水(銀水)井戸のものである。銀明水井戸は徳川幕府再築の大坂城本丸に設けられた5つの井戸のうちの一つで、本丸御殿【ほんまるごてん】台所の裏に位置し、本丸を警備する役人たちの飲料水として用いられた。大坂城内で最も格式の高い井戸の一つで、「金」「銀」などの井戸の名称に冠して重要性を表現した例は各地に見られる。昭和6年(1931)、大坂城天守閣の復興と同時に行われた第四師団司令部庁舎の新築にあたり、井筒と周囲の敷石が現在地に移され、飲料用の水道水が引かれた。なお現在の金明水は小天守台上にあるが、これは元来「黄金水」と呼ばれたもので、金明水井戸はこれとは別に本丸内にあった。今の配水池に埋もれていて目にすることができない。 |
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大坂城公園 本丸広場 桜門 銀明水井戸の井筒 |
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大坂城公園 本丸広場 桜門枡形の巨石
桜門の内側には、本丸の正面入口を守るため、石垣で四角く囲まれた「枡形」とよばれる区画が設けられ、上部に多聞櫓【たもんやぐら】が建てられた。この枡形は、徳川幕府による大坂城再築工事の第2期工事が始まった寛永元年(1624)、備前岡山藩主池田忠雄【いけだただお】の担当によって築かれ、石材は備前 (岡山県)産の花崗岩【かこうがん】が用いられている。正面の石は蛸石【たこいし】とよばれる城内第1位の巨石で、表面積がおよそ36畳敷(59.43平方メートル)、重量は約108トンと推定される。向かって左手の巨石は振袖石【ふりそでいし】(袖石【そでいし】)とよばれ、表面積はおよそ33畳敷(53.85平方メートル)で、城内第3位である。なお、上部の多聞櫓は慶応4年(=明治元年、1868)、明治維新の大火で焼失した。 |
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大坂城公園 本丸広場 桜門枡形の巨石 |
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大坂城公園 本丸広場 旧大坂市立博物館(旧陸軍第4師団司令部庁舎)
旧陸軍第4師団司令部庁舎を利用して昭和35年に開館したが、平成13年に馬場町交差点に大阪歴史博物館が開館することにともない、閉館した。現在は使用されていない。 |
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大坂城公園 本丸広場 |
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大坂城公園 本丸広場 タイムカプセル EXPO’70
「人類の進歩と調和」をテーマにした日本万国博覧会を記念して、
毎日新聞社、松下電器産業株式会社の両社は、同じ内容のカプセル
2個を完成し、この地下15メートルに埋設しました。
日本をはじめ世界各国の人びとの協力を得て選んだ20世紀の文化所産2098点が最新の保存技術によって、特殊金属製容器に収納されています。 私たちは限りない世界の平和と繁栄を信じて、5000年後の人類にこれを残します。
上部のカプセルは毎世紀初頭に、下部のカプセルは6970年に開封していただくことをここにお願いします |
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大坂城公園 本丸広場 タイムカプセル EXPO’70 |
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大坂城公園 本丸広場 大坂城天守閣
左のエレベーターは身障者専用で、天守閣見物後広場に下りてきる階段前に鎖で閉ざされて健常者は利用できないようになっている。 |
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大坂城公園 本丸広場 大坂城天守閣 残念石
両横に鎮座しているこの石は元和六年(一六二〇)から始まる大坂城修復の時天領小豆島(香川県)で割られたまま、用材石としての念願がかなわず、今なお数多く残されていることから、「残念石」と呼ばれている。
この大きな石は、筑前黒田長政の石切丁場でみつかり、小さな石は豊前細川忠興の手になるものである。
これらの石を、小豆島青年会議所が創立十周年記念事業として、「島は一つ」の社会活動の実践に、大阪青年会議所は商都大阪の復権を願い「なにわの知恵」の再考にと、両会議所が共同事業として当時を再現し、小豆島よりこの地に運び据えたものだそうです。
場所は天守閣正面石垣の下にある。
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大坂城公園 本丸広場 大坂城天守閣 残念石 |
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大坂城公園 桜門前の空堀
別ページにまとめた天守閣を見物後、大坂城公園を戻り、中之島公園に向かう。 |
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大坂城公園 桜門から大手門に戻る |
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大坂城公園 修道館
柔道、剣道、なぎなたの道場が設けられている。 |
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大坂城公園 大手門(高麗門) |
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大坂城公園 大手門から大手前芝生広場へ |
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大坂城公園 府庁南交差点 界隈案内図
府庁南交差点で右折して上町筋に出て、中之島公園から御堂筋を北上し、梅田(JR大阪駅)に向かった。 |