|
大坂城 天守閣 改札口から天守閣へ |
|
大坂城 天守閣 重要文化財 金明水井戸屋形
大坂城の小天守台【しょうてんしゅだい】にある井戸を金明水といい、それを覆う面積11.55平方メートル、高さ5.2メート ルの建物を金明水井戸屋形という。井戸は水面まで約33メートル、井筒はー個の石をくり抜いたもので、外部の水流しは4枚の大石を組み合わせて敷き詰めている。伝説では豊臣秀吉が、水の毒気を抜くために黄金を沈めたと言われているが、戦後の学術調査により、この井戸は豊臣時代のものではなく、徳川幕府による大坂城再築工事にともない寛永元年(1624)に新たに掘られたものであること、さらに井戸屋形は同3年(1626)に創建された当時のもので、同じ年に築かれた天守が寛文5年(1665)に焼失した際にも類焼をまぬがれたことが判明した。なお江戸時代までこの井戸は黄金水【おうごんすい】と呼ばれ、本来の金明水(金水)は天守の東側、現在の配水池のあたりにあった。 |
|
大坂城 天守閣 重要文化財 金明水井戸屋形
金明水井戸屋形、号砲共に天守閣入口前にある。 |
|
大坂城 天守閣 号砲 |
|
大坂城 天守閣 号砲
この大砲は、全長348cm、砲口の内径20cm、外径40cm先込式の旧式砲で、材質は青銅の一種とみられる。
1863年、幕府の命令により、美作津山藩(岡山県津山市)の鋳工・百済清次郎らが製造し、大坂天保山砲台の備砲として据え付けられ、明治維新後、大阪城内に移されたと伝える。
明治3年(1870)から時刻を知らせる号砲として用いられ、はじめは日に3度、明治7年からは正午のみ空砲が大阪市内にとどろきわたり、「お城のドン」、「お午のドン」の名で市民に親しまれた。火薬節約その他の理由により大正12〜3年(1923〜24)頃中止されたが、その時期と事情ははっきりしていない。 |
|
大坂城 天守閣からの風景 西方面案内図 |
|
大坂城 天守閣からの風景 西方面(西の丸庭園)
西の丸庭園の芝生広場と、右端の大阪迎賓館がよく分かる。 |
|
大坂城 天守閣からの風景 西方面(大阪歴史博物館、NHK大阪放送局、大阪府警察本部)
左端の壁に青の眼が付いたビルは大阪歴史博物館、その後の高いビルはNHK大阪放送局、手前の白い横に展開されたビルは大阪府警察本部である。 |
|
大坂城 天守閣からの風景 北方面(クリスタルタワー、OBPパナソニックタワー、MIDタワー、松下IMPビル、ホテル ニューオオタニ大阪、OBPキャッスルタワー、大阪城ホール)
中央の青のビルはクリスタルタワー、その右から3棟はOBPパナソニックタワー、MIDタワー、松下IMPビルである。右端の低層の白いビルはホテル ニューオオタニ大阪、その左の茶色のビルはOBPキャッスルタワーで、手前の青い屋根のおわん型のビルは大阪城ホールである。 |
|
大坂城 天守閣からの風景 北方面案内図 |
|
大坂城 天守閣からの風景 北方面(OAPタワーズ) |
|
大坂城 天守閣からの風景 北方面(クリスタルタワー、OBPパナソニックタワー、MIDタワー、松下IMPビル、ホテル ニューオオタニ大阪、OBPキャッスルタワー、大阪城ホール)
左端の青のビルはクリスタルタワーで、3枚前の写真と方向はほぼ同じである。 |
|
大坂城 天守閣からの風景 東方面案内図 |
|
大坂城 天守閣からの風景 東方面(大阪城梅林、生駒山、JR大阪城公園駅)
天候悪化のため遠景はボケてしまっている。中央やや右の赤い屋根は大阪城梅林であるが、生駒山は地理不案内もありその後の山並み、JR大阪城公園駅は左の競技場の後ぐらいにしか分からない。 |
|
大坂城 天守閣からの風景 南方面(本丸広場、修道館、豊国神社、旧大坂市立博物館(旧陸軍第4師団司令部庁舎))
直下の広場は本丸広場で、右の緑青葺きの長い建物は修道館、その左に豊国神社があって、左には旧大坂市立博物館(旧陸軍第4師団司令部庁舎)が見える。 |
|
大坂城 天守閣からの風景 南方面案内図 |
|
大坂城 天守閣からの風景 南方面(旧大坂市立博物館(旧陸軍第4師団司令部庁舎)、一番櫓、金剛山)
中央やや左に旧大坂市立博物館(旧陸軍第4師団司令部庁舎)が、その後に一番櫓の屋根が見える。その遥か後方に金剛山があるはずだが識別困難である。
今から30年以上昔に大阪で係長勤務の頃、幼稚園児の息子と何回も金剛山に登り、アイゼンを付けて冬に登ったりもした。詳細は忘れたが、登頂記念に社務所でバッチをもらったのを思い出す。 |