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見番通り(長命寺〜弘福寺〜三囲神社)

【関連サイト】   梅雨の晴れ間の浅草散策(ほおずき市、隅田公園、長命寺、弘福寺、三囲神社、牛嶋神社)H280710(言問団子〜長命寺〜弘福寺)

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墨堤通り 「向島 言問団子」前の風景 墨堤通り 「向島 言問団子」前の風景 
墨堤通り 「向島 言問団子」前の風景 墨堤通り 「向島 言問団子」前の風景 

墨堤通りが大きく右折しているのが分かる。「桜もち 長命寺」は墨堤通りを曲がってすぐの首都高の高架沿いにある。
墨堤通り 「向島 言問団子」 墨堤通り 「向島 言問団子」 

店の外壁に掲示されていた。

言問団子と郡司大尉

 江戸後期、向島で植木屋を営んでいた外山佐吉は、文人墨客に手製の団子を振舞う「植佐」という団子屋を開くと、花見客や渡船客の間でも人気となった。
 明治元年、長命寺に逗留していた歌人の花城翁より、在原業平が詠んだ「名にしおはヾ いざ言問はん都鳥 我が想う人はありやなしやと」に因んだ命名の勧めを受けた佐吉は、「言問団子」と名づけ、業平神社を建て、都鳥が飛び交うこの辺りを「言問ヶ岡」と呼んだ。明治11年、佐吉が始めた灯籠流しによりその名は広く知られていった。後に「言問」は、言問橋や言問通りなどの名称で定着したが、ルーツは「言問団子」である。
 また、この裏手にある桟橋からは、明治26年3月20日千島開拓に向かう郡司大尉率いる5艘の端艇が出発している。隅田川両岸はこれを憂国の壮挙と称える群衆で埋まり、花火が打ち上げられ、歓呼の声と楽隊の演奏が響く中での船出であった。この時、大尉の弟、幸田露伴はこれに同乗して横須賀まで見送っている。
見番通り起点の交差点で墨堤通りを渡り、右折 見番通り起点の交差点で墨堤通りを渡り、右折 

墨堤通りは「向島 言問団子」のすぐ先の丁字路交差点で左折して北上する。右折すると見番通りとなる。交差点の名称はない。

名物の言問団子は注文してから箱詰めするので少し時間がかかるものの、すぐ買うことが出来た。そこで季節物の桜もちを買うべく「桜もち 長命寺」に向かった。
墨堤通り 「桜もち 長命寺」に向かう 墨堤通り 「桜もち 長命寺」に向かう 

墨堤通りと見番通りの丁字路交差点には十月桜や河津桜が植えられており、他にも様々な碑が建てられている。
墨堤通り 店の外にも長蛇の列の「桜もち 長命寺」 墨堤通り 店の外にも長蛇の列の「桜もち 長命寺」 

長命寺の桜餅はいつ来ても長蛇の列で買うことが出来ず、2年前(平成28年)の2月にやっと買うことが出来た。その時はすぐ店内に入って注文したが、それからが長く、注文が通っているのだろうかと不安になるほどだった。今回は花見時期でもあり、長蛇の列を見てとても並ぶ気にはなれなかった。

長命寺桜もちは200円で、桜の葉で包んだ柏餅、という感じで大きく美味しい。ただ、普通の桜もちの感覚で葉を一緒に食べるとびっくりするほど塩辛く、餅の風味は吹き飛ばされる。

長命寺桜もちの公式ホームページ

当店の桜もちは「長命寺桜もち」として、古来より皆様のご愛顧をいただいております。桜もちの由来は、当店の創業者山本新六が享保二年(一七一七年、大岡越前守忠相が町奉行になった年)に土手の桜の葉を樽の中に塩漬けにして試みに桜もちというものを考案し、向島の名跡・長命寺の門前にて売り始めました。
その頃より桜の名所でありました隅田堤(墨堤通り)は花見時には多くの人々が集い桜もちが大いに喜ばれました。
これが江戸に於ける桜もちの始まりでございます。
墨堤通り 丁字路交差点に戻り右折、見番通りへ 墨堤通り 丁字路交差点に戻り右折、見番通りへ 
見番通り 三差路交差点で右折 見番通り 三差路交差点で右折 

左折すると水戸街道(国道6号)に出る。
見番通り 長命寺(隅田川七福神 弁財天) 見番通り 長命寺(隅田川七福神 弁財天) 
見番通り 長命寺(隅田川七福神 弁財天) 見番通り 長命寺(隅田川七福神 弁財天) 
見番通り 長命寺(隅田川七福神 弁財天) 境内に並ぶ碑 見番通り 長命寺(隅田川七福神 弁財天) 境内に並ぶ碑 
見番通り 長命寺(隅田川七福神 弁財天) 境内に並ぶ碑 芭蕉雪見の句碑 見番通り 長命寺(隅田川七福神 弁財天) 境内に並ぶ碑 芭蕉雪見の句碑 

 芭蕉の句碑は、全国で千五百余を数えるといわれますが、その中で「いざさらば 雪見にころぶ所まで」と刻まれたこの雪見の句碑は、最もすぐれた一つといわれています。松尾芭蕉の門人祗空はこの地に庵をつくり、その後、祗空の門人自在庵祗徳は、庵室に芭蕉像を安置し、芭蕉堂としました。そして、三世自在庵祗徳が安政五年(一八五八)に庵を再興し、この句碑を建立したのです。
 芭蕉は寛永二十一年(一六四四)伊賀上野に生まれ、後に江戸深川六間堀に芭蕉庵を構え、読林派から出て俳諧の境地を高め、「わび」「しおり」「かるみ」に代表される蕉風を不動の地位にしました。元禄七年(一六九四)旅先の大阪で没しましたが、其角など数多くの門弟を輩出してます。
見番通り 長命寺(隅田川七福神 弁財天) 境内に並ぶ碑 芭蕉雪見の句碑 見番通り 長命寺(隅田川七福神 弁財天) 境内に並ぶ碑 芭蕉雪見の句碑 
見番通り 長命寺(隅田川七福神 弁財天) 境内に並ぶ碑 見番通り 長命寺(隅田川七福神 弁財天) 境内に並ぶ碑 
見番通り 長命寺(隅田川七福神 弁財天) 境内に並ぶ碑 見番通り 長命寺(隅田川七福神 弁財天) 境内に並ぶ碑 
見番通り 弘福寺(隅田川七福神 布袋尊) 見番通り 弘福寺(隅田川七福神 布袋尊) 
見番通り 弘福寺(隅田川七福神 布袋尊) 淡島寒月旧居跡 見番通り 弘福寺(隅田川七福神 布袋尊) 淡島寒月旧居跡 

 父の淡島椿岳は、江戸時代に大流行した軽焼きせんべいの名店「淡島屋」を経営する実業家で大地主であった。また、知識欲が旺盛で、画を学び、ピアノを買って演奏会を開く趣味人でもあった。明治17(1884)年、向島の弘福寺地内に隠居所を建てて住んだ。
 息子の寒月は西鶴再評価のきっかけをつくり、趣味人として、新聞や雑誌に寄稿。実体験をベースにした小説や江戸にまつわる話などを洒脱なタッチで著わし好評を博した。
 明治26(1893)年頃、父の使ってぃた隠居所を梵雲庵と名づけ隠居。「梵雲庵寒月」と号し、悠々自適な生活に入る。夏目漱石の「我が輩は猫である」に水島寒月という学者が登場するが、モデルは寺田寅彦で、名前は寒月から採ったといわれている。
 収集家としても有名で、梵雲庵には三千余の玩具と江戸関連の貴重な資料があったが、関東大震災ですべて焼失されてしまった。
見番通り 弘福寺(隅田川七福神 布袋尊) 見番通り 弘福寺(隅田川七福神 布袋尊) 
見番通り 弘福寺(隅田川七福神 布袋尊) 見番通り 弘福寺(隅田川七福神 布袋尊) 

隅田川七福神コース案内板 弘福寺 布袋尊

 黄檗宗弘福寺は、三百年余の昔、名槍鉄牛禅師によって創建された。黄檗宗は禅宗の中でも中国色の強い宗派として知られ、当時に布袋尊の御像が安置されたのも、実はその黄檗宗の性格に深くかかわるのである。
 布袋尊は、唐時代の実在の禅僧である。常に大きな布の袋を持ち歩き、困窮の人に会えば袋から財物を取り出しては施し、しかも袋の中身は盡きることがなかった。その無欲恬淡として心の広い人柄は、心の幸福とは欲望を満たすだけではないことを、身をもって諭した有徳として、世人の尊崇を受け、七福神としても敬われたのである。
見番通りを南下 見番通りを南下 
見番通りを南下 見番通りを南下 
見番通りを南下 見番通りを南下 
見番通りを南下 見番通りを南下 

黒塀の先に三囲神社の石の鳥居が見える。



 
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