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ロープウェイ東雲口駅〜長者ヶ平〜松山城 筒井門

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ロープウエー街 松山城ロープウエー 東雲口駅舎 ロープウエー街 松山城ロープウエー 東雲口駅舎 
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松山城ロープウエー 長者ヶ平駅舎 本丸案内図 松山城ロープウエー 長者ヶ平駅舎 本丸案内図 
松山城ロープウエー 長者ヶ平駅舎 松山城ロープウエー 長者ヶ平駅舎 
松山城ロープウエー 長者ヶ平駅 熱中症計はほぼ安全 松山城ロープウエー 長者ヶ平駅 熱中症計はほぼ安全 

現在時刻は15:05で、温度20.5℃、湿度は35%、熱中症計はほぼ安全である。

福山では小雪が舞っており、寒かったが、松山では温度が20.5℃もあるとは思わなかった。結構重いキャリーケースを引っ張っているので少し汗をかいてはいたが、水分補給を取ることとした。
松山城へのいざない 松山城へのいざない 
松山城へのいざない 松山城へのいざない 

本丸 本丸は、城の防衛上、最後の砦となる郭で、連立式天守(本壇)が設けられている。三重の天守をはしめ門や櫓、塀など21棟の建造物が重要文化財に指定されている。
また、昭和41年(1966)年から全国でも類を見ない、総木造による城郭建造物29棟が復興されており、それらとあわせて、江戸時代の雰囲気か良く残されている。
 本丸周囲の高石垣は、扇勾配と屏風折が特徴で、北側を中心に築城時のものが残されている。
二之丸 二之丸は、貞享4年(1687年)まで藩主の御殿があった場所で、発掘調査の成果を基に史跡庭園として整備・公開されている。特に全国有数の規模を持つ大井戸
遺構は必見である。
三之丸(堀之内) 三之丸は、藩主の御殿や会所、勘定所、御用米蔵、馬場など藩の施設と武家屋敷が広がっていた空間で、当時、ここからが本丸への正式な登城道であった。
東郭・北郭 東郭と北郭は、それぞれ城の東側と北側を防備する郭である。東郭は、築城時のものと考えられる周囲の石垣が良好に残されている。一方、北郭は、そのほとんど

が消失しているが、石垣の一部が山麓に残されている。
その他の防御施設
 場内の北登り石垣や三の丸北側の堀や土塁、内堀、城下町の東側にあったと言われている堀や土塁などは、近代以降の改変消失したか、地形や街の区画にその名残をとどめている。
松山城へのいざない 松山城へのいざない 

 松山城は、松山平野の中央に位置する勝山(海抜132m)を中心に築かれた平山城で、山頂に「本丸」が、南西の山麓に「ニ之丸」や、堀と土塁に囲まれた「三之丸(堀之内)」が配されています。さらに本丸と二之丸をつなぐ全国でも珍しい南北2本の「登り石垣」や、東と北の山麓に「東郭」「北郭」が配置されるなど、堅牢な城構です。また、それらが良好に残されている全国でも数少ない城跡で、敷地の大部分は「国史跡」に、本丸の建造物の多くが「重要文化財」に指定されています。
 松山城の築城は、関ヶ原の戦い{慶長5年(1600年)}での活躍により、この地を与えられた加藤嘉明)によって、慶長7年(1602年)から始められました。嘉明は、築城にあわせて、勝山の南を流れていた湯山川(現:石出川)を付け替えました。また、城下町の整備を行い、三之丸と城の周囲に侍町を、その外側に町人地を置き、さらに、勝山の北側にある御幸寺山の山麓に、城を防備するために寺町を配置しました。なお、嘉明は、正木城(伊予郡松前町)から慶長8年(1603)10月新城下に移りました。この頃から、「松山」と呼ばれるようになりました。
 城の完成は、寛永4年(1627年)に嘉明が会津へ転封された後、替わって入った蒲生忠知によると伝えられています。忠知の死後、跡継ぎがいなかったため、寛永12年(1635年)、松平定行が松山藩に入り、以後、明治維新を迎えるまで松山城は、松平家の居城として機能しました。
 松山城の天守は、定行によって三重に改築されましたが、天明4年(1784年)正月に落雷で焼失したため、安政元年(1854年)に再建されました。
松山城へのいざない 松山城へのいざない 
松山城 長者ヶ平 松山城 長者ヶ平 

ロープウエーの長者ヶ平駅前の広場から右折して本丸に向かう。
ロープウエー 長者ヶ平から本丸に向かう ロープウエー 長者ヶ平から本丸に向かう 

長者ヶ平から始まる石の階段は整備されていて歩きやすいが、結構重いキャリーケースを引きながら歩くのは大変である。

このことを考慮してロープウエイの東雲口駅でキャリーケースをコインロッカーに入れようとしたが、わずかにサイズが合わず、ガラガラ引きながら歩く羽目になった。
 松山城 石垣 松山城 石垣 
 松山城 石垣 松山城 石垣 
 松山城 石垣 松山城 石垣 

 石垣は、松山城を特徴づける構造物の一つで、中でも「登り石垣」は、全国て最大規模を誇ります 石材には、主に花崗岩か使用され、隅部はほとんとが算木積てす。
 本丸を囲む高石垣は、高さ10mを越え、美しい曲線を描く扇勾配と、屈折を連続させることて防御性を高めた。屏風折が特徴てす。江戸時代に改修を受けている部分もありますが、北側を中心に、加藤嘉明による築城時{慶長7年(1602年)〜}の典型的な石垣か良く残されています。その特徴は、緩い勾配と上部のきつい反り、一部自然石を使用した打込ハギの乱積てす。
 一方、本壇の石垣は、北側と南側で異なっています。北側は、時期はわかりませんが、打込ハギのの布積で、隙間に合わせて加工された間詰石が詰め込まれている特微かみられます。南側は、北側より新しく、嘉永年間(1848〜1854年)、天守などが再建された際に、新しく積みなおされ、十分に手間をかけた切込ハギの布積で、隙間のない整った外観となっています。
 松山城 石垣 松山城 石垣 
松山城 待合番所跡 松山城 待合番所跡 
松山城 待合番所跡 松山城 待合番所跡 
松山城 待合番所跡 松山城 待合番所跡 

大手門跡 大手門は、慶長年間(1596〜1615年)の築城時に建てられ、山麓にある二之丸およぴ三之丸(堀之内)へ通ずる重要な門てす。古文書や古絵図には、「尾谷ニノ門」「待合御門」「待合
一ノ門」などと記されています。明治時代に、楊木戸門とともに取り壊されました。
待合番所跡 待合番所は、東雲口からの登城道と二之丸からの登城道の合流する地点に、警備のために設けられました。その場所は、はっきりしていません。古文書には、常時三人が詰めていたと記されています。
 この場所は、東は楊木戸門、西は大手門によって仕切られ、大手の入口で最も堅固な筒井鬥に続く要点て、兵力運用の重要拠点ともなっています。
 なお、古文書には、楊木戸門から大手門まての石垣上に、6箇所の石落、76箇所の鉄砲狭間、11箇所の矢狭間が備えられていた渡塀(土塀)があったことが記されています。
楊木戸門跡 楊木戸門は、築城時に建てられ、西の大手門とともに本丸大手の入口を固める重要な門です。古文書や古絵図には「揚木戸一ノ鬥」も記されています。
松山城 待合番所跡 松山城 待合番所跡 
松山城 待合番所跡 松山城 待合番所跡 

案内がないので断定はできないが、左手に大手門があったように思える。右の坂は戸無門に向かう。
松山城 戸無門に向かう 松山城 戸無門に向かう 
松山城 右折して戸無門に向かう 松山城 右折して戸無門に向かう 

直進すると中ノ門だが立入禁止になっている。
松山城 戸無門 松山城 戸無門 

中ノ門跡

 中ノ門は、大手登城道の太鼓櫓石垣下に設けられていましたが、明治時代に取り壊されました。
 この門を設けることで、攻めてきた寄手は、門を通り過ぎて直進する者と、戸無門へ行く者とに分かれることになりますが、直進したものは乾門下で行き止まりとなります。
 太鼓櫓から乾門へ続く石垣は、屏風折と呼ばれ、石垣が屈折しています。これは、寄手がどこにいても弓や鉄砲で射撃することができる横矢掛といわれる防衛上重要な構造となっています。
松山城 戸無門 松山城 戸無門 

戸無門

 戸無門は、本丸の大手登城道に設けられた高麗門です。門は、両脇の寄掛柱を石垣にもたせ、脇戸はありません。江戸時代から戸無門の名で呼ばれており、鏡柱に扉を吊る肘壺の痕跡もないので、創建当初から扉を持たなかったものと考えられています。
 建築年代は明らかではありませんが、寛永から正保年間(1624〜1648年)の建立になるものと推定されています。また、寛政12年(1800年)に建替えられたことを示す棟札が残されています。昭和10年(1935年)国宝に指定されましたが、同25年(1950年)の法改正により重要文化財になりました。
 戸無門を過ぎて左折すると、大手で最も堅固な筒井門と隠門の防衛線に達します。
松山城 筒井門 松山城 筒井門 

戸無門から攻め入ると筒井門しか見えず、隠門は石垣の背後に隠れて見えない。そこで隠門から寄手を奇襲することができる。
松山城 筒井門 松山城 筒井門 
松山城 重要文化財 隠門 松山城 重要文化財 隠門 
松山城 筒井門 松山城 筒井門 

 筒井門と隠門は、本丸大手の重要な固めで、城内で最も堅固な建造物のーつです。
 筒井門は脇戸付の櫓門で、慶長年間(1596〜1615年)の築城に際し、正木城(伊予郡松前町)から移築されたと伝えられる城内最古の建物の一つでした。明治時代になってから石落や窓などが改変されましたが、昭和10年(1935年)国宝に指定され、同12年に修復工事が実施されました。
 同24年(1949年)2月、放火によって焼失しましたが、同42年と43年に両側の石垣か解体修理され、同46年3月に総て栂で復元されました。門戸には楠の一枚板が用いられています。
 焼失前、門の棟木裏には、「慶長七口口年四月マサキヨリウツス也」と墨書されていました。
※石落‥天守や櫓や塀などの床面を張り出して設けた細長い穴で、石垣を登ってくる敵に頭上から石などを落とすために仕掛けられたといわれているが、現在は鉄砲の射撃としての穴として理解されいる。
※棟札‥建物の趣築や修理の記録として、建物内に取り付けられる札のこと
松山城 重要文化財 隠門 松山城 重要文化財 隠門 

 隠門は、正門である筒井門の奧の石垣の陰に隠された、埋門形式の櫓門で、戸無門を通過して筒井門に迫る寄手の側面を急襲する策略が秘められています。
 欄間は戸無門同様の格子欄間で、2階は筒井門東続櫓と隠門続櫓とを結ぶ渡櫓となっています。
 慶長年間(1596〜1615年)の築城時に建てられたと考えられており、創建当時の技法が残されている貴重な建造物です。昭和10年(1935年)国宝に指定されましたが、同25年(1950年)の法改正により重要文化財となりました。
 これを過ぎると、太鼓櫓と巽櫓の防衛線に達します。
松山城 重要文化財 隠門 松山城 重要文化財 隠門 



 
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