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本妙寺(明暦の大火供養塔、遠山金四郎景元墓所)

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本妙寺 山門 本妙寺 山門 

元々浜松にあったが、天正20年(1592年)の徳川家康の関東移封により移された。寺号の徳栄山は、家康の繁栄を願って付けられたらしい。寺内には遠山景元(遠山の金さん)、千葉周作など有名人の墓がある。
本妙寺は、明暦3年(1657年)に江戸の半分以上を焼いた明暦の大火の出火元で有名で、曰く因縁のある振袖を焼いたことが出火の一因と言われる。一説には幕閣の有力者が真の火元であり、隣接する本妙寺が身代わりになった、とも言われる。
本妙寺 史跡一覧 本妙寺 史跡一覧 

山門右に掲示されている。

(振袖火事)
  明暦大火供養塔
(関宿藩主)
  久世大和守歴代の墓
(江戸後期の北町奉行)
  遠山金四郎景元の墓
(江戸後期の剣聖)
  千葉周作の墓
(囲碁家元)
  本因坊歴代の墓
(江戸後期の将棋棋聖)
  天野宗歩の墓
(日本最初の通訳)
  森山多吉郎の墓
本妙寺 史跡 遠山金四郎景元之墓 本妙寺 史跡 遠山金四郎景元之墓 

 遠山景元は、江戸時代後期の幕臣で寛政五年(一七九三)遠山景普の子として生まれた。
 文化六年(一八〇九)金四郎と改名し、文政十二年(一八二九)家督を相続、天保七年(一八三六)左衛門尉を許され、作事奉行、勘定奉行を経て天保十一年(一八四〇)三月町奉行(北)に任ぜられた。翌年から老中水野忠邦による天保改革が始まったが、その進行中の天保十四年(一八四三)町奉行を罷免され、大目付に異動させられた。弘化二年(一八四五)町奉行(南)に復帰し、嘉永五年(一八五二)三月まで七年間にわたり勤役した。下情に通じた江戸時代屈指の名奉行といわれ、遠山の金さんとして様々な伝説がある。江戸歌舞伎三座取りつぶし策を、浅草の外れに移転させて存続させたのも遠山町奉行といわれている。隠居後は剃髪して帰雲と号し、市井に身をひそめて悠々自適の生活を送ったが安政二年(一八五五)二月二十九日六十一歳で病死した。法名帰雲院殿従五位下前金吾校遷日享大居士。明暦の大火(一六五七)の火元となったことでも知られる、本郷丸山の徳栄山本妙寺に葬られたが、本妙寺が明治四十四年この地に移転した時に改葬された。
本妙寺 史跡 遠山金四郎景元之墓 本妙寺 史跡 遠山金四郎景元之墓 
本妙寺 境内図 本妙寺 境内図 

6年前に来た時はなかったが、史跡がどこにあるか分かりやすい。
本妙寺 本堂 本妙寺 本堂 
本妙寺 関宿藩主 久世大和守歴代の墓 本妙寺 関宿藩主 久世大和守歴代の墓 
本妙寺 関宿藩主 久世大和守歴代の墓 本妙寺 関宿藩主 久世大和守歴代の墓 
本妙寺 史跡墓所 本妙寺 史跡墓所 

史跡の場所を示す案内が立てられており、分かりやすい。
本妙寺 史跡墓所 本妙寺 史跡墓所 
本妙寺 振袖火事 明暦大火供養塔 本妙寺 振袖火事 明暦大火供養塔 

明暦3年(1657年)に、本妙寺から出火した。江戸の半分以上を焼いた大火で、曰く因縁のある振袖を焼いたことが出火の一因と言われる。

一説によると、本当の火元は隣接する老中大名家で、体面上本妙寺が火元とされ、振袖火事の伝説が出来たとも言う。理由は出火の責を問われなかったことでも明らか、と言う。

ちなみに、明暦の大火は犠牲者10万人以上と言われ、その多くが身元不明、引取り手のない有様だった。そこで四代将軍家綱は、こうした遺体を葬るため、両国回向院を建立、その菩提を永代にわたり弔うように念仏堂が建立された。
本妙寺 囲碁家元 本因坊歴代の墓 本妙寺 囲碁家元 本因坊歴代の墓 
本妙寺 囲碁家元 本因坊歴代の墓 本妙寺 囲碁家元 本因坊歴代の墓 
本妙寺 囲碁家元 本因坊歴代の墓 本妙寺 囲碁家元 本因坊歴代の墓 

「本因坊」の由来

 囲碁の本因坊家は江戸時代に成立した四家元の一つ(他には井上、安井、林の各家)です。また「本因坊」の名称は、京都・寂光寺の塔頭の一つ本因坊において、日海(後の算砂)が居住していたことに由来します。
 算砂は本因坊家の初代統領として興隆への道を切り開き、囲碁界最高の栄誉である「名人・本因坊」に叙せられ、また1603年(慶長8)、江戸幕府から初代の「碁所」に任ぜられました。
 「碁所」とは、江戸城において将軍の御前で対局をする「御城碁」の棋士の手合いを差配したり、棋士の段位を定めたり、免状の発行権をもつなど、囲碁界最高の地位を保証された棋士です。
 碁所をめぐって四家はしばしば熾烈な争いを展開しましたが、その中で頂点に立ったのが本因坊家であり、庶民への広まりも含めた碁界の隆盛に貢献しました。その理由に実子相続を前提とする世襲制ではなく、弟子の中で優れたものが相続する実力制だったことが挙げられます。
 本妙寺は創立後何度も場所をかえ、1910年(明治43)現在地へ移転しましたが、その時に墓所の配置はほぼ現在の形となり、四世本因坊道策より二十一世本因坊秀哉に至るまで、本因坊代々の棋士と縁の人々が祀られています。
本妙寺 囲碁家元 本因坊歴代の墓 本妙寺 囲碁家元 本因坊歴代の墓 
本妙寺 遠山金四郎景元の墓、千葉周作の墓 本妙寺 遠山金四郎景元の墓、千葉周作の墓 
本妙寺  江戸後期の剣聖 千葉周作の墓 本妙寺  江戸後期の剣聖 千葉周作の墓 
本妙寺 史跡墓所 本妙寺 史跡墓所 
本妙寺 江戸後期の北町奉行 遠山金四郎景元の墓 本妙寺 江戸後期の北町奉行 遠山金四郎景元の墓 
本妙寺 江戸後期の北町奉行 遠山金四郎景元の墓 本妙寺 江戸後期の北町奉行 遠山金四郎景元の墓 

右は遠山金四郎景元書の碑で、「遠山氏先塋之碑」と書かれている。「先塋」とは、祖先の墓地の意味である。
本妙寺 江戸後期の北町奉行 遠山金四郎景元の墓 本妙寺 江戸後期の北町奉行 遠山金四郎景元の墓 



 
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