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慈眼寺
慈眼寺は、慶長20年(1615年)深川に創建され、大正11年(1912年)に移転した。江戸時代の画家司馬江漢、芥川龍之介、谷崎潤一郎の墓がある。 |
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慈眼寺 山門、墓所入口
慈眼寺の山門は閉じられているが、墓所は左手にある。 |
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慈眼寺 墓所
墓所には司馬江漢の墓、斉藤鶴磯の墓、小林平八郎の墓、芥川龍之介の墓、比翼塚があることになっている。小林平八郎は赤穂義士討ち入りの際、斬死した吉良家家臣である。
探したが、小林平八郎の墓と比翼塚は見当たらなかった。 |
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慈眼寺 墓所
右に染井霊園の紅葉した木立が見える。 |
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慈眼寺 芥川龍之介の墓
墓所のはずれに近いところにあり、左折して突き当りに芥川家の墓がある。 |
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慈眼寺 芥川龍之介の墓
右は芥川家の墓で、左に龍之介単独の墓がある。 |
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慈眼寺 芥川龍之介の墓 |
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慈眼寺 谷崎潤一郎の墓
芥川龍之介の墓の案内柱の裏にある。特に案内もないので見落としやすい。 |
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慈眼寺 谷崎潤一郎の墓
墓に分骨葬と書かれている。 |
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慈眼寺 司馬江漢の墓
墓所のほとんど外れにあり、一画の入口にあたり、その後ろに斉藤鶴磯の墓がある。 |
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慈眼寺 司馬江漢の墓
江戸時代後期の洋風画家で蘭学者。安藤氏の子として延享四年(一七四七)江戸四谷に生まれた。
名は安藤吉次郎という。のち唐風に姓を司馬、名を峻に改めた。字は君嶽、江漢は号である。はじめ狩野派に学んだが飽きたらず、浮世絵師鈴木春信に師事して、春重の名で「夏月図」などを発表した。明和七年(一七七〇)春信没後春信の偽物を描くが長続きせず、二世鈴木春信を気取って鈴木春重と称して美人面を多く描いた。同時に平賀源内の紹介で南蘋派の宋紫石に学んで漢画を習得した。安永年間秋田蘭画の指導者小野田直武から洋風画の教えを受け、天明三年(一七八三)腐触銅版画の創製に成功した。晩年は老荘の思想に親しみ、文政元年(一八一八)十月ニ一日七二歳で死去した。本所猿江町にあった慈眼寺に葬られたが寺院の移転により改葬された。著書には『西洋画談』『春波楼筆記』『和蘭通舶』などがある。法名桃言院快詠寿延居士。墓標は生前に建てられた(文化七年)寿塔である。 |
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慈眼寺 司馬江漢の墓 |