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都営 三田線 目黒駅
目黒不動には三田線がそのまま乗り入れる東急目黒線の不動前駅から歩けば良い。
しかし、目黒駅からいくつもの歴史上の遺構を通り、目黒不動に行くのが定番コースである。
江戸三大大火の一つ明和の大火の火元である目黒行人坂大円寺は、八百屋お七の相手の吉三(西運)と縁があり、続く目黒雅叙園もそうである。さらに永代橋落橋の慰霊碑がある海福寺などを経て青木昆陽(甘藷先生)の墓がある名刹目黒不動に着く。 |
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目黒駅前で左折、目黒通りへ
目黒通りは東の庭園美術館前で2本に分かれ、北側を走る東行きの道と、西行きの写真の道とに分かれる。 |
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目黒駅前 目黒通りの左の道に進む
三井住友銀行の左側の道である。 |
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目黒 行人坂を下る
下りる時はともかく、上るのは結構大変な急坂である。幸いにして距離は短い。右のビルはホリプロ本社である。 |
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目黒 行人坂を下る
寛永の頃、出羽(山形県)の湯殿山の行人が、このあたりに大日如来堂を建立し修行を始めました。しだいに多くの行人が集まり住むようになったので、行人坂と呼ばれるようになったといわれています。 |
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目黒 行人坂 大円寺(大黒天)
寛永元年(1624)、出羽湯殿山の修験僧大海法印による開創。境内には国の重要文化財である本尊釈迦如来立像のほか、明和9年(1772)にここから発した行人坂火事の犠牲者を供養する五百羅漢、江戸城の裏鬼門にあたることから徳川家康をモデルにした大黒天を祀り、山手七福神の一つとして信仰される。 |
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目黒 行人坂 大円寺(大黒天) |
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目黒 行人坂 大円寺(大黒天)
この寺は「松林山大円寺」といいます。寛永のはじめ、湯殿山の大海法印が寺の前の坂(行人坂)を切りひらき、大日金輪を祀って祈願の道場を開いたのがその始まりと伝えられています。
本寺には、“生身の釈迦如来”と言われている木造「清涼寺式釈迦如来立像」(国指定文化財)、木造「十一面観音立像」(区指定文化財)、徳川家の繁栄と江戸発展守護のための「三面大黒天像」(山手七福神の一つ)などが安置されています。
明和9年2月(1722)、本堂から出火、江戸六百余町を焼き、多くの死者を出しましたが、その供養のためにお造られた「釈迦三尊・十六大弟子」、五百羅漢の像等の「大円寺石仏群」(都指定文化財)が建てられています。また阿弥陀堂には「木造阿弥陀三尊像」(区指定文化財)や八百やお七の火事にまつわる西運上人の木像、お七地蔵などが祀られています。
境内には行人坂敷石造道供養碑」(区指定文化財)、「目黒川架橋供養勢至菩薩心像」(区指定文化財)、西運の墓、などがあります。江戸の面影を残している行人坂の景観や老樹古木のしげる境内は緑の自然と古い歴史が薫る静かな美しい浄域を守っています。 |
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目黒 行人坂 大円寺(大黒天) 石仏群
明和九年(一七七二)二月に江戸市街地を焼いた大火があり、火元と見られたのが大円寺であった。大円寺では焼死した人びとを供養ずるために、天明頃(一七八一〜九)境内に五百羅漢像等を建立したと「新編武蔵風土記稿」は記載している。
しかし、判読できる銘文によると。明和の大火で死亡した者のみの供養ではなさそうであるが、江戸災害史の貴重な記念物であることには変わりない。 |
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目黒 行人坂 大円寺(大黒天) 石仏群
明和九年(一七七二)二月に江戸市街地を焼いた大火があり、火元と見られたのが大円寺であった。大円寺では焼死した人びとを供養ずるために、天明頃(一七八一〜九)境内に五百羅漢像等を建立したと「新編武蔵風土記稿」は記載している。
しかし、判読できる銘文によると。明和の大火で死亡した者のみの供養ではなさそうであるが、江戸災害史の貴重な記念物であることには変わりない。 |
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目黒 行人坂 大円寺(大黒天) 五百羅漢と明和九年大火
明和九年(一七七二)二月二九日行人坂大圓寺からあがった火の手は、たちまち燃え広がり、折からの強風にあおられ三日三晩にわたる大火となってしまいました。飛び散る火の粉は市中の大半に広がり、江戸九三〇余町(江戸の街の約三分の一)を焼き尽くしたのです。大火後亡くなつた人人々一万四千七百余人を供養するためにつくられた五百羅漢の石仏群は、それぞれの表情に特徴があり赤ん坊を抱いた女性の羅漢像もあります。大火犠牲となった人々の霊を慰めるために羅漢像の前の水を差し上げて供養して下さい。
この火災は、行人坂の大火(明和九年)と呼ばれ、振り袖火事(明暦三年),車坂の大火(文化年間)とともに、江戸三大火災の一つとなりました。この年幕府は「明和九(めいわく)の年」として、年号を「安永」と改元しました。 |
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目黒 行人坂 大円寺(大黒天) 石仏群 |
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目黒 行人坂 大円寺(大黒天) 庚申塔(天台宗の三諦の教えに由来する)
どの碑も「見ざる、聞かざる、言わざる」の3ざるである。 |
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目黒 行人坂 大円寺(大黒天) 庚申塔(天台宗の三諦の教えに由来する)
サルが庚申塔に登場したのは室町も末、庚申待ちの夜 阿彌陀、観音、山王などがまつられ庶民を守ってくれた。 |
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目黒 行人坂 大円寺(大黒天) 行人坂敷石造道供養碑(区指定文化財) |
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目黒 行人坂 大円寺(大黒天) 行人坂敷石造道供養碑(区指定文化財)
この供養碑は、高さ164cm。碑の上部に種子(梵字)キリーク.(阿弥陀)サ.(観音)サク.(勢至)が刻まれています。
下部の碑文によって、この坂を利用する念仏行者たちが悪路に苦しむ人々を救うため、目黒不動尊や浅草観音に参詣し、通りがかりの人々から報謝を受け、これを資金として行人坂に敷石の道を造り、この成就と往来の安全とを供養祈願したことがわかります。
施主は西運で元禄16年(1703)の紀年があり、江戸と目黒の社寺を結ぶ重要な参詣路であった行人坂開発の歴史を知るうえに貴重な歴史資料です。 |
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目黒 行人坂 大円寺(大黒天) 八百屋お七と吉三(西運) |
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目黒 行人坂 大円寺(大黒天) 八百屋お七と吉三(西運)
江戸時代本郷の八百屋の娘お七は天和二年(一六八二)の火事の際、自宅を焼かれしばらくの間、駒込の円林寺に仮住いしており、その時に寺小姓の吉三に恋したという。お七が十六才、吉三は十八才でした。
恋こがれたお七は吉三に会いたい一心で翌年自分の家に放火したために、江戸市中を引廻しの上、鈴ヶ森の処刑場で火刑に処せられた。
その後、一方の主人公「寺小姓吉三」はお七の処刑後僧となり名を「西運」と改め諸国を行脚、後に大圓寺の下の明王院(現雅叙園)に入ってお七の菩提を弔うため、往復十里(約四十キロメートル)の道のりを浅草観音まで夜から明け方にかけて鉦を叩き念仏を唱え、隔夜日参り一万日の行を二十七年と五ヶ月かけて成し遂げ、お七が夢枕に立って成仏した事を告げられったことから「お七地蔵尊」を造った。又、西運は多くの江戸市民から浄財の寄進を受け、これを基金に行人坂に敷石の道を造り、目黒川に石の太鼓橋を架け社会事業の数々を行った。 |
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目黒 行人坂 大円寺(大黒天) 本堂 |
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目黒 雅叙園
アニメ「千と千尋の神隠し」の舞台のモデル、とも言われるほど時代がかった結婚式場である。入口には八百屋お七所縁の井戸があるが、横浜に移築され、無かった時期がある。
ちなみに、アニメ「千と千尋の神隠し」の舞台のモデルは、台湾の台北にある円山大飯店とも言われている。こちらの方がイメージには合っている。 |
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目黒 雅叙園 「お七の井戸」
八百やの娘お七は、恋こがれた寺小姓吉三あいたさに自宅に放火し、鈴ヶ森で火刑にされた。
吉三はお七の火刑後僧侶となり名を西運と改め明王院に入り、目黒不動と浅草観音の間、往復十里の道を念仏を唱えつつ隔夜一万日の行をなし遂げた。明王院という寺院は、現在の目黒雅叙園エントランス付近から庭園にかけ明治13年頃まであった。
この明王院境内の井戸で西運が念仏行に出かける前にお七の菩提を念じながら、水垢離をとったことから「お七の井戸」と言い伝えられている。 |
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目黒 雅叙園 「お七の井戸」 |
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目黒 目黒川に架かる太鼓橋 |
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目黒 目黒川に架かる太鼓橋
太鼓橋は約250年前、大喰上人が造り始め後に、江戸八丁掘の商人達が、資材を出し合って宝暦14年(1764)から6年の歳月を経て完成した。広重はこの太鼓橋を浮世絵に書いており、こうしたアーチ形の石橋は江戸の中でも他に例がなく、目黒の欧風文化の第一号とさえいわれたが大正9年9月1日、豪雨により石橋は濁流にのまれ、昭和7年架設された。現在の橋は、目黒川流域の都市整備計画により、平成3年11月に完成した。 |
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目黒 目黒川に架かる太鼓橋から見た裸木の桜並木
目黒川の桜並木は名所とよばれる。 |