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清澄通り 石原一丁目交差点 横網町公園 東京都復興記念館
石原一丁目交差点から清澄通りの西側にある横網町公園の東京都復興記念館沿いに南下する。 |
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清澄通り 横網町公園 正門 |
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清澄通り 横網町公園 正門から見た東京都慰霊堂 |
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清澄通り 横網町公園 北にある東京都復興記念館
復興記念館前には震災時の猛火と熱風で溶解した遺構が展示されている。 |
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清澄通り 横網町公園 案内図 |
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清澄通り 横網町公園 東京都慰霊堂
昭和5年に関東大震災の身元不明の遺骨を納め、死亡者の霊を祀る震災記念堂として創建され、昭和23年より東京大空襲の身元不明の遺骨を納め、死亡者の霊を合祀して、昭和26年に現在の姿となった。
本堂は伊東忠太設計によるもので、寺院風の建築となっている。200坪の講堂を持ち、三重塔がその奥にある。三重塔は高さ約41mで、基部は納骨堂となっている。講堂には祭壇があり、震災死亡者、空襲死亡者の霊をそれぞれ合祀した巨大な位牌が2基祀られている。
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清澄通り 横網町公園 東京都慰霊堂 |
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清澄通り 横網町公園 東京都慰霊堂
東京都慰霊堂由来
この堂は、大正12(1923)年の関東大震災の後に東京市内で災害の最も悲惨であったここ被服廠跡に遭難死者のご遺骨を納める霊堂として建てられ「震災記念堂」と名付けられました。
そして、遭難者の霊を祀り、その加護によって今後このような災害の起こらないことを祈願するため、毎年9月1日の震災記念日に慰霊大法要を執り行い、併せて「焦土のなかから東京を復興させた官民の熱心な協力」の思い出をあらたにしようとしたものです。
ところが、その悲願も空しく、21年を経た昭和19 (1944)年の冬から、首都東京は戦争により空からの爆撃を受けて、関東大震災の数倍もの惨禍を被りました。
そこで、この戦災遭難者の霊と御遺骨を併せてこの堂に奉安し、昭和26(1951)年9月に名称を「東京都慰霊堂」と改め、最も被害が大きかった東京大空襲の日の3月10日にも毎年東京都慰霊協会主催による慰霊大法要が行なわれるようになりました。
*利用時間 9:00〜16:30 (年末年始休み)
*施設概要 竣工日 昭和5(1930)年4月30日
構 造 鉄骨鉄筋コンクリート造
延床面積 1,470u 最高高さ40.9m
設計者 伊藤忠太
納骨数 震災58,000体 戦災105,000体 |
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清澄通り 横網町公園 東京都慰霊堂の西に向かう |
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清澄通り 横網町公園 東京都慰霊堂 三重塔 |
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清澄通り 横網町公園 東京都慰霊堂 三重塔
三重塔の基部は納骨堂である。 |
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清澄通り 横網町公園 西門に向う |
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清澄通り 横網町公園 西門 |
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清澄通り 横網町公園 西門の向かいは旧安田庭園 |
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旧安田庭園 正門 |
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旧安田庭園 正門
旧安田庭園の沿革
元禄年間(1688−1703)に、徳川5代将軍綱吉の生母である桂昌院の実弟で後の常陸笠間藩5万石の藩主、本庄因幡守宗資が下屋敷として拝領し、この庭園を築造したと伝えられている゜中央に「心」字をかたどった池を配し、かつては隅田川の水を引き入れ、潮の干満によって変化する景観を楽しむ、いわゆる潮入り池泉廻遊式庭園である。
明治になって旧備前岡山藩主池田章政侯爵邸となり、明治24年(1891)には、安田財閥の創始者である初代安田善次郎の所有となった。安田翁の逝去後、故人の遺志により大正11年(1922)に家屋及び庭園は、東京市に寄付された。
大正12年(1923)9月1日の関東大震災により壊滅的な被害を受けたが、残った地割り石組みを基にして復元工事が行われた。旧安田邸跡地は寄付者の名を冠して「旧安田庭園」と命名され、昭和2年(1927)に民間篤志家の寄付による和風庭園として都内初の一般公開となった。
昭和42年(1967)、東京都から墨田区に移管されたのを機に、全面的な改修工事を行い、昭和46年(1971)に新装開園し、現在に至っている。
明治時代の文献の中で記載されている姿を今日までよくとどめており、清澄庭園に匹敵する明治時代の代表的庭園の一つであることから、平成8年(1996)、東京都の「名勝」に指定された。 |
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旧安田庭園 正門 |
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旧安田庭園 案内図 |
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旧安田庭園 心字亭
外から見た感じだが、トイレ付きの休憩所のようで、ここから直接庭園に出ることは出来ない。 |
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旧安田庭園 心字亭から庭園へ |
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旧安田庭園 心字亭から庭園へ |
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旧安田庭園 心字池 |
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旧安田庭園 心字池 |
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旧安田庭園 心字池 |
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旧安田庭園 心字池 |
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旧安田庭園 心字池の西辺の遊歩道 |
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旧安田庭園 心字池 水門跡 |
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旧安田庭園 心字池 水門跡
水門跡
江戸時代にこの庭園が造成された折、隅田川から水を引き込み、潮の干満によって池の水位を上下させ、それとともに見え隠れする岩や護岸、浮沈する島等の景観変化を楽しむという技法がとられました。これは「潮入」と呼ばれるものです・
この水門は、潮入池の水位調整のために造られたものでしたが、昭和三十年代までの隅田川の水質環境の悪化や、出水対策のための堤防補強に伴って、昭和四十年頃には閉じられ、導水溝も埋められてしまいました。
潮入の池は、都内ではほかに浜離宮庭園や旧芝離宮庭園、清澄庭園などでも採り入れられていましたが、現在も目にすることができるのは、浜離宮のみとなりました。
墨田区では、潮入の再現を図るため、昭和四十六年に本園北側に約七百五十平方メートルの貯水槽(貯水量約八百トン)を地下に造り、池と貯水槽に水を移動させることにより、人エ的に干満を表現する潮入を再現しました。
本園の水門は、現在では当初の機能を失ってはいますが、往時の姿をとどめる遺構として現状のまま保存されています。 |
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旧安田庭園 水門跡から見た心字池 |
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旧安田庭園 西門 |
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旧安田庭園 西門
旧安田庭園の南西の門である。 |