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蔵前橋通り 横網町公園・東京都慰霊堂
東京には関東大震災や、東京大空襲の慰霊碑が多くある。
横網町公園も公園造成中に関東大震災が起こり、付近でも多数の犠牲者が出たため、その犠牲者たちと東京大空襲の犠牲者も祀る鎮魂の地。納骨堂である東京都慰霊堂、被災者の遺品や当時の写真などを展示する復興記念館、東京大空襲の犠牲者を追悼する碑が立つ。屋外にも震災で被災した印刷機などが展示されでいる。 |
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蔵前橋通り 横網町公園・東京都慰霊堂 |
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横網町公園 復興記念館前 震災時の猛火と熱風で溶解した遺構
ほとんど跡形もなくなった遺構が展示されている。 |
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横網町公園 復興記念館前 震災時の猛火と熱風で溶解した遺構
百馬力電動機
大日本麦酒株式会社吾妻橋工場内で焼損した、100馬力の電動機。
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横網町公園 復興記念館前 震災時の猛火と熱風で溶解した遺構
釘の焼損
深川区(現在の江東区)平久町花島倉庫に保存されていた鉄釘2万個が、猛火による高熱のため溶解して、ひとつのかたまりとなったものの一部である。 |
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横網町公園 東京都慰霊堂
理由、工期などは分からないが、工事中である。 |
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横網町公園 復興記念館 |
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横網町公園 正門を出て左折、清澄通りを北上
横網町公園は旧陸軍被服廠跡で、関東大震災で約4万人がこの地で焼け死んだため、震災慰霊堂が作られた。合わせてその後の復興を記念する復興記念館も建てられた。その後、約10万人が焼け死んだと言われる昭和20年3月10日の東京大空襲の身元不明者も合わせ、約17万人の遺骨が安置されている。名称も、昭和26年に東京都慰霊堂となった。 私が子供の頃、祖母から生まれて間もない母を背負い、幼子3人の手を引いて下町を逃げ惑ったと大震災の話をよく聞かされた。 |
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清澄通り 石原一丁目交差点で右折、蔵前橋通りへ |
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蔵前橋通り 石原三丁目交差点で三ツ目通りを渡る |
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蔵前橋通り 石原三丁目交差点で三ツ目通りを渡る |
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蔵前橋通り 大横川親水公園 報恩寺橋 |
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蔵前橋通り 大横川親水公園 報恩寺橋
大横川親水公園は南北に続く親水公園で、終点は業平橋である。 |
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蔵前橋通り 報恩寺 |
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蔵前橋通り 報恩寺 |
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蔵前橋通り 報恩寺
報恩寺 開山 本住院日住上人 開基 太田道灌公
道灌公は長禄二年(一四五八年)凡そ五四〇年前、江戸城(現在の皇居)築城の折、城内鎮護の析願所として当山を平川村(現在の皇居・平川門付近)に建立、京より日住上人を迎え、開山とする。建立の地をとって、山号を平河山(平川)と号す。
時移り、徳川家康公江戸幕府を開くにあたり、慶長十年(一六〇五)神田柳原へ移転。その後、慶安二年(一六四九)谷中清水町へ移り、元禄八年(一六九五)幕府の命により、現在地に移された。
現在塔中は四ヶ寺であるが、元禄当時は、二十ヶ寺を擁したと伝えられる。
当地を太平町と称するのは、太田道灌公の太及び平河山の平を合わせたものである。
大正大震災、昭和二十年三月十日の戦災に遭遇、ニ度焼失、昭和二十九年十月現在の堂宇が建立された。 |
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蔵前橋通り 報恩寺
参道の奥に東京スカイツリーが見える。 |
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蔵前橋通り 太平四丁目交差点で四ツ目通りを渡る
交差点の右角にはオリナス・タワーがある。オリナスとは錦糸町なので、「錦の糸が様々な模様を織り成す」からの造語である。
右折すると錦糸町駅に、左折して北上すると押上の東京スカイツリーに向かう。 |
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蔵前橋通り 太平四丁目交差点で四ツ目通りを渡る |
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蔵前橋通り 横川に架かる天神橋 |
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蔵前橋通り 横川に架かる天神橋
横川は南北に流れる川で、「縦」川でないのは竪川が東西に流れるのに「横」川でない理由と同じである。 |
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蔵前橋通り くず餅で有名な和菓子の老舗 船橋屋 |
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蔵前橋通り 亀戸天神入口交差点 |