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国技館通りを南下 JR 総武線の高架下を通る |
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国技館通りを南下 名力士の手形や像
手形には力士名が書かれているが、残念なことに力士像についての説明がない。明らかに大鵬と分かるものもあるが、手形の数人の誰かだろう、と想像するだけである。 |
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国技館通りを南下 |
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国技館通り 両国二丁目交差点 回向院山門 |
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国技館通り 両国二丁目交差点 両国シティコア(旧国技館) 土俵の位置 |
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国技館通り 両国二丁目交差点 両国シティコア(旧国技館) 土俵の位置
回向院の隣にある両国シティコアの中庭にあり、特に説明もないので分かりにくい。自転車置き場と化しているが、旧国技館の土俵の位置を示している。
70年安保世代としては、旧国技館と言うよりも、日大紛争の舞台だった日大講堂の方が馴染み深い。 |
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国技館通り 両国二丁目交差点 回向院山門
10日前の12月8日に本所吉良祭を見物した際、回向院を訪れているが、かねて場所が分からなかった山東京伝の墓が鼠小僧の墓の近くと知って回向院を再訪した。 |
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回向院 表参道 |
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回向院 表参道 相撲関係石碑群〈力塚〉 |
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回向院 表参道 無縁仏慰霊碑
10日前の訪問時にもこの像の名前と由来を記した碑を探したが見つからなかった。本堂内の事務所の係員に問合せたところ、名前はなく、震災や、火災などの無縁仏慰霊碑である、とのことだった。 |
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回向院 史跡記念墓地 山東京伝墓、山東京山墓
無縁仏慰霊碑の横にある。墓の案内はあるが、場所の明示はない。そのため、回向院に墓があるのは分かるが、場所が分からず、今まで発見できなかった。
本所吉良祭の後、Webを探していたら鼠小僧の墓の近くにある、と分かった。 |
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回向院 史跡記念墓地 山東京伝墓
岩瀬京伝墓
江戸時代の著名な戯作者。名は醒、字は酉星。
京橋南伝馬町に住んでいたため号を京伝とし、愛宕山の東に当ることにちなんで山東といった。
彼は深川木場の質屋に生まれ、若くして浮世絵を北尾重政に学び、北尾政演の名で黄表紙のさし絵などを描いた。「御存商売物」が蜀山人に認められ、「江戸生艶気樺焼」によって一躍黄表紙作家として広く知られるようになった。さらに「令子洞房」で洒落本作家としての地歩を築いたが寛政三年(一七九一)風俗を乱すものとして手鎖五十日の刑に処せられ、以後読本作家に転じた。
著書には「仕懸文庫」「孔子縞于時藍染」「心学早染草」「傾城買四十八手」「近世寺跡考」「骨董集」その他多い。文化十三年(一八一六)九月七日歿。年五十七。 |
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回向院 史跡記念墓地 山東京山墓
岩瀬京山墓
江戸時代の著名な戯作者である山東京伝の弟で同じく戯作者である。名を百樹といい、字を鉄梅といった。鉄筆堂は号で、通称は利一郎、のち京山と改めた。
はじめ篠山侯に仕え、のちこれを辞して兄京伝の業を継ぎ、やがて剃髪して涼仙と号した。著書には「稗史小説」「蜘蛛の糸巻」その他がある。安政五年(一八五八)九月二十四日流行病コロリ(コレラ)にかかって歿した。
なお、兄京伝の墓を建てたのは京山である。方半居士、覧山の別号がある。 |
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回向院 史跡記念墓地 石造海難供養碑(墨田区登録文化財) |
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回向院 史跡記念墓地 鼠小僧供養墓
鼠小僧関連の碑や案内が多くある。
鼠小僧の供養墓の左右の墓を探したが、山東京伝兄弟の墓は見当たらず、左手から裏に回って探した。 |
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回向院 史跡記念墓地 岩瀬醒墓(山東京伝墓)
山東京伝兄弟の墓は鼠小僧の墓の真裏であり、薄暗く、薄ら寒い。しかも、「山東京伝」ではなく、本名の「岩瀬醒」なので分かりにくい。 |
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回向院 史跡記念墓地 岩瀬百樹墓(山東京山墓) |
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回向院 史跡記念墓地 岩瀬氏之墓
墓の周囲には説明文はない。 |
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回向院 史跡記念墓地 岩瀬氏之墓の正面は鼠小僧供養墓 |
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回向院 閉鎖されている裏門
本所吉良祭では開放されていた裏門は閉鎖されている。 |
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回向院 表参道を歩いて山門へ |
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国技館通り 両国二丁目交差点 回向院山門 |
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国技館通りを北上 |
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JR 総武線 両国駅 西口
駅名の両国駅は相撲文字である。 |