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谷中霊園(天王寺五重塔跡〜さくら通り〜徳川慶喜墓所)

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谷中霊園 ぎんなん通りを東進 谷中霊園 ぎんなん通りを東進 
谷中霊園 ぎんなん通り 天王寺駐在所で右折、さくら通りへ 谷中霊園 ぎんなん通り 天王寺駐在所で右折、さくら通りへ 
谷中霊園 天王寺五重塔跡 谷中霊園 天王寺五重塔跡 

天王寺駐在所に隣接する。
谷中霊園 天王寺五重塔跡 谷中霊園 天王寺五重塔跡 

谷中の天王寺は、もと日蓮宗・長燿山感応寺尊重院と称し道灌山の関小次郎長耀に由来する古刹である。元禄一二年(一六九九)幕命により天台宗に改宗した。現在の護国山天王寺と改称したのは、天保四年(一八三三)のことである。
最初の五重塔は、寛永ニ一年(正保元年・一六四四)に建立されたが、百三十年ほど後の明和九年(安永元年・一七七二)目黒行人坂の大火で消失した。罹災から十九年後の寛政三年(一七九一)に近江国(滋賀県)高島郡の棟梁八田清兵衛ら四八人によって再建された五重塔は、幸田露伴の小説『五重塔』のモデルとしても知られている。

昭和三二年七月九日放火により消失した。
谷中霊園 天王寺五重塔跡 谷中霊園 天王寺五重塔跡 
谷中霊園 ぎんなん通り 天王寺駐在所で右折、さくら通りへ 谷中霊園 ぎんなん通り 天王寺駐在所で右折、さくら通りへ 
谷中霊園 さくら通りを南下 谷中霊園 さくら通りを南下 

桜の季節には見事な桜並木であるが、霊園のため上野公園のようにブルーシートでの宴会はない。
谷中霊園 さくら通り 川上音二郎 1864〜1911 銅像台座 谷中霊園 さくら通り 川上音二郎 1864〜1911 銅像台座 

新派俳優。壮士劇の卒先者。福岡県の人。福岡藩主黒田氏の御用商人川上専蔵の子。玄洋社に入り、自由党壮士の群に投じ、自由童子と称し各地を浪遊し政談演説をする。過激な民権論を試み、政府を攻撃し法に触れ獄に投ぜられこと数々あり。金泉丑太郎と一座を組織、「経国美談」演じるが失敗に終わる。横浜にて書生芝居に加わり「板垣退助遭難実記」を演じ好評を博す。外国演劇視察のため渡仏。帰国後、書生芝居を組織。浅草にて「意外、又意外、又々意外」の新作を演じオッペケペ節を歌い大いに喝采を得る。日清戦争劇でも満都の好評を博す。衆議院議員の選挙運動に失敗。一座で渡航米国にて興行大好評を得る。英・仏を巡回し名声を上げる。独・伊・露巡演好評。自ら興
行師たらんとして大阪帝国座を経営する。明治劇団に新派劇の新生面を開く。妻定奴近代日本最初の女優で、内助の功あり。銅像は戦時中金属の供出で取り外され、台座のみ残る。
谷中霊園 さくら通り 川上音二郎 1864〜1911 銅像台座 谷中霊園 さくら通り 川上音二郎 1864〜1911 銅像台座 
谷中霊園 さくら通り 高橋 お伝  1850〜1879 谷中霊園 さくら通り 高橋 お伝  1850〜1879 

嘉永三年、上野国前橋に生まれる。明治初期の稀代の悪婦として知られる。最初の夫、浪之助が悪病にかかり身体の自由を失ったのでこれを毒殺し、他の男のもとに走り、その後、各地を放浪しながら悪事を重ねた。明治九年、浅草蔵前の旅館丸竹で、古着屋後藤吉蔵をだまして殺害、所持金二百両を持って逃走、京橋新富町で捕らえられ、同十二年、三十歳で死刑に処せられる。毒婦お
伝の名は都下の新聞、仮名垣魯文のお伝一代記『高橋阿伝夜叉譚』などで有名になる。しかし、彼女は貧困と差別のうちに男に利用された気の毒な存在と見る見方も強まっている。碑は物語で利を得た魯文が世話人となって作られた。
谷中霊園 さくら通り 高橋 お伝  1850〜1879 谷中霊園 さくら通り 高橋 お伝  1850〜1879 
谷中霊園 さくら通り 徳川慶喜墓所への案内板 谷中霊園 さくら通り 徳川慶喜墓所への案内板 

以前はこのような案内板があったかどうか、記憶にない。
谷中霊園 徳川慶喜墓所への案内板 谷中霊園 徳川慶喜墓所への案内板 

ポイントごとに親切な案内板があり、分かりやすい。少なくともこれほど親切な案内はなかった。
谷中霊園 徳川慶喜墓所への案内板 谷中霊園 徳川慶喜墓所への案内板 
谷中霊園 明治維新の公卿 大原重徳の墓 谷中霊園 明治維新の公卿 大原重徳の墓 

徳川慶喜の墓所の手前にあり、文久2年(1862年)、勅使として将軍徳川家茂に勅諭を伝達した帰りに護衛の薩摩藩士により生麦事件が起こった。
谷中霊園 明治維新の公卿 大原重徳の墓 谷中霊園 明治維新の公卿 大原重徳の墓 

顕彰碑である。
谷中霊園 明治維新の公卿 大原重徳の墓 谷中霊園 明治維新の公卿 大原重徳の墓 

大原重徳は王政復古派の公卿として活躍した。文久2年(1862年)に勅使として将軍徳川家茂に幕政改革と攘夷の方策を整うべしとの勅諭を伝達したほか、慶応3年(1867年)の小御所会議で山内容堂、松平春獄と論争、徳川慶喜井の辞官納地を決めた。
谷中霊園 徳川慶喜墓所 谷中霊園 徳川慶喜墓所 

壁の中に墓所がある。現在地は下線中央の赤印で、入口は右上角近くである。一見右回りが近いように見えるが、実際には他の墓が並んで大回りしなければならない。左回りのほうが近い。
谷中霊園 徳川慶喜墓所 谷中霊園 徳川慶喜墓所 

壁の右側に柵があり、そこから木立の奥に徳川慶喜墓所が見える。
谷中霊園 徳川慶喜墓所 谷中霊園 徳川慶喜墓所 
谷中霊園 徳川慶喜墓所 谷中霊園 徳川慶喜墓所 

 徳川慶喜(一八三七〜一九一三)は、水戸藩主徳川斉昭の第七子で、はじめは一橋徳川家を継いで、後見職として将軍家茂を補佐しました。慶応二年(一八六六)、第一五代将軍職を継ぎましたが、翌年、大政を奉還し慶応四年(一八六八)正月に鳥羽伏見の戦いを起こして敗れ、江戸城を明け渡しました。復活することはなく、慶喜は江戸幕府のみならず、武家政権最後の征夷大将軍となりました。
 駿府に隠棲し、余生を過ごしますが、明治三一年(一八九八)には大政奉還以来三〇年ぶりに明治天皇に謁見しています。明治三五年(一九〇二)には公爵を受爵。徳川宗家とは別に「徳川慶喜家」の創設を許され、貴族院議員にも就任しています。大正二年(一九一三)一一月二二日に七七歳で没しました。
 お墓は、間口三・六m、奥行き四・九mの切石土留を囲らした土壇の中央奥に径一・七m、高さ〇・七二mの玉石畳の基壇を築き、その上は葺石円墳状を成しています。
谷中霊園 徳川慶喜墓所 谷中霊園 徳川慶喜墓所 



 
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