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イタリア周遊H271203-H271210
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H271203-05 羽田〜ミラノ〜ベネチア〜フィレンツェ
羽田からの出発は初めてだが、自宅からタクシーで行けることもあり、成田に比べ旅費も数千円も安く1時間以上も遅く家をでることが出来た。空港も成田よりも大分小さいので分かりやすくて歩きやすい。ツアー代金がそれほどでもなかったこともあり、腰痛対策も兼ねてビジネスにしたがややチープ感はあるものの、平になって寝ることが出来たので熟睡出来た。トランジットのロンドン ヒースロー空港での乗り換えの保安検査はパリ乱射事件直後のため厳しく、巻き舌の早口の英語には苦労した。ミラノは深い霧でよく到着できたものだと感心した。
スフォルツェスコ城は、イタリア・ミラノにあり、現在は元々の1/4程度になっており美術館としても公開されている。1450年にミラノ公爵のフランチェスコ・スフォルツァがヴィスコンティ家の居城を改築して建設した城塞である。霧のスフォルツェスコ城の外壁沿いに歩き、空堀を渡ると中庭で、内側の堀にはきれいな丸い石の砲弾が積み上げられている。高い塔の門から出るとセンピオーネ公園の大噴水がある。
『最後の晩餐』はサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会の左に建てられた美術館にあり、1回に15名、予約制で鑑賞できる。指定時間前だと美術館に入れず、教会を見物する。ミラノ領主フランチェスコ・スフォルツァの支援を受けて1463年に建設を開始、1490年には大部分が完成。その2年後ルドヴィーコ・スフォルツァにより増改築が始まり、ダ・ヴィンチに壁画を依頼、当時教会付属の修道院の食堂に描かれたのが縦約4mX横約9mの巨大な『最後の晩餐』で、教会は1980年に世界遺産に登録された。美術館には幾つもの部屋があり、見物者全員が入ると入口の扉が閉められ、次の部屋への扉が開くを繰り返す。『最後の晩餐』はフラッシュ厳禁で撮影は可能であるが、長年の傷みから全体のボケた印象を受け、いささか興ざめである。
ミラノスカラ座の前にあるスカラ広場には巨大なレオナルド・ダ・ヴィンチ像があり、その下には4人の弟子の像がある。ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世のガッレリアは、ミラノにあるアーケードの名称で、2つのアーケード(8角形の建物に2つのアーケードが交差する)に覆われ、ドゥオーモ広場の北に位置し、スカラ広場へ通じ、アーケードの両側には有名ブティック店が並ぶ。ドーム天井にあるクリスマスツリーにはスワロフスキー(SWAROVSKI)のクリスタルが飾られ、盗難防止のため警備員が立っている。イタリア王国の建国者であるヴィットーリオ・エマヌエーレ2世像があるドゥオーモ広場には、屋根から伸びる135本の尖塔の先端には聖人たちの彫像が取り付けられ、ミラノの街を見下ろしている壮麗なドゥオーモがある。
ドゥオーモの着工は1386年、ミラノ公国の領主だったジャン・ガレアッツォ・ヴィスコンティの命により、聖母マリアに捧げるために建設された。建設は度重なる戦争のために何度も中断されたが、イタリアに侵攻してきたナポレオンの命により、1813年にようやく完成した。ドゥオーモ入口には機関銃を持った兵士が警備しており、厳しい手荷物検査が行われる。ドゥオーモの身廊には新旧約聖書の名場面を描いた壮麗なステンドグラスが飾られている。ドゥオーモ広場から、ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世のガッレリアを通り、スカラ広場に戻る。
ミラノ 車窓から黄葉の市内風景を見た後、ミラノからベネチアへ濃霧の高速道路を4時間走る。ベネチア本島は車での通行は禁止のため、バスは立ち入れない。そのため、トロンケット島から水上バスに乗り換えるが、スーツケースなどの荷物は専用の船で別送される。現地時間の18時頃であるが、真っ暗でどこを進んでいるのか皆目分からないが、20分ほどでホテル専用船着場に着く。ベネチアは運河が四通八達している街で、自動車が走れないこともあり、ホテルの入口は運河にある船着場である。夕食を近くのホテルで取った後、サン・マルコ広場を通ってホテルに戻る。時刻は21:10である。
ホテル専用船着場から有名ブティック店がある路地を歩き、大運河沿いの水上バス乗り場に着く。運河の街ベネチアは自動車ではなく、水上バスが重要な交通手段で、現地時間8:45はまさに通勤ラッシュである。右手には工事中のリアルト橋があり階段の両側は商店であるが、まだ開いていない。昼間の賑わいと違い、寂れた橋にすぎない。有名ブティック店がある路地を歩き、サン・マルコ広場の大鐘楼に至る。
サン・マルコ広場のサン・マルコ寺院横のクリスマスツリー脇を通り、路地を歩いて橋を渡るとベネチアングラス工房である。職人による花瓶制作実演を見た後、2階の店で商品販売が行われる。ベネチアングラスの印象は九谷焼で、個人的には趣味でない。サン・マルコ広場に戻り、ドゥカーレ宮殿や有翼のサン・マルコの獅子像、聖テオドーロ像、サン・マルコ運河の向かいのサン・ジョルジョ・マッジョーレ島を見物する。
サン・マルコ広場にあるドゥカーレ宮殿は、かつてのベネチア共和国元首の住居で、最高議会が行われていた政治の中枢である。内庭から階段を上り、黄金の階段を上った所からドゥカーレ宮殿の遺構がある。3年半前に来た時は撮影禁止であった。しかし、現在はフラッシュ厳禁ではあるが撮影可能である。何故撮影可能になったのか、現地ガイドは説明しなかったが、フィレンツェのウフィツィ美術館も撮影可能となった。こちらはガイドによれば悪名高い中国人のマナー違反に起因するとの事だった。何度注意してもフラッシュで写真を傍若無人で撮りまくるため根負けし、フラッシュ厳禁で撮影許可となった。見事な天井画や壁画を鑑賞しつつ歩くと溜め息橋を経て牢獄跡に着く。溜め息橋は、ドゥカーレ宮殿の東側に架かる橋で、宮殿と牢獄を結ぶもので、裁判や拷問にかけられる囚人が溜め息とともに渡ったことから名付けられた。
現地ガイドと別れ、ゴンドラの乗船時刻までの1時間半ほどの自由時間となった。現在10:15で、大鐘楼に昇ると待ち時間を考えるとぎりぎりになり、土産物を買うことに当てることとした。ムーア人の時計塔からの商店街でベネチアングラスの小物土産を買った後、道案内に従い有名ブティック店がある路地を歩きリアルト橋を上る。朝一番で来た時は両側の商店は閉鎖され、寂れた感じだったが、さすがにベネチアの有名スポットで賑わっている。土産物を買った後、サン・ジャコメート教会、大運河、青果市場横にある青果店などを見物し、サン・マルコ広場に戻る。
ホテル ヴィオリーノ・ドーロ前のゴンドラ乗船場からツアー客4名で乗船、市内の運河を30分掛けて巡る。ゴンドラに乗る時には左右の乗船者の体重バランスが重要で、2家族の男は左右に分かれて座るものと思った。しかし、2人共右に座るよう指示され、細いゴンドラは大きく右に傾いた。その理由はすぐ分かった。左側に立ってゴンドラを漕ぐ漕ぎ手が巨体であり、乗船したらバランスが取れた。3年半前の前回は添乗員も乗船し、ゴンドラから見える風景を解説した。今回はツアー客のみで、どこをどう通っているのか分からなかった。サン・モイぜ教会前で下船し、サン・マルコ広場に戻る。
ゴンドラからサン・マルコ広場に戻り、有翼のサン・マルコの獅子像が立つサン・マルコ運河前で左折、ドゥカーレ宮殿沿いに歩く。天気は急速に良くなり青空が広がっていく。15世紀の有名な傭兵隊長であるバルトロメーオ・コッレオーニ騎馬像を過ぎ、レストランで名物のイカスミパスタを食べる。昼食後、サン・マルコ広場を経てホテルに戻る。 ホテルの専用船着場から水上バスを使って自動車が使えるトロンケット島へ向かう。前回はサン・マルコ運河を通って行ったが、今回は風景から大運河やベネチア本島の小運河を使ったようである。トロンケット島からバスに乗り、ベネチアから高速道路でフィレンツェに向かう。時折ミラノからベネチアに向った時にあった濃霧に見舞われる。途中のアペニン山脈での休憩所では流石に寒くなってきた。ホテルの出発から約4時間後にフィレンツェのホテルに着き、サバティーニで夕食を取る。
H271206-07 フィレンツェ〜サン・ジミニャーノ〜ピサ〜ローマ
毎月第1日曜日は入場券の予約販売がなく、8時半から先着順で入場し、一定の数に達したら以後は退館者の数だけ入場させるとのことが分かった。そのため、当初サン・ジミニャーノに行って、午後に美術館の予定をホテルから徒歩5分の美術館に行って並び、午後にサン・ジミニャーノと変更した。ルイ・ヴィトンなどの高級ブティック店が並ぶ道を歩き、シニョリーア広場のヴェッキオ宮殿の隣にあるウフィツィ美術館回廊で開館を待つ人々の長い列に並ぶ。
3年半前の前回に訪れた時は撮影禁止だったが、今回はフラッシュ厳禁だが撮影は許可されていた。その理由は、何度注意しても中国人がフラッシュで写真を傍若無人で撮りまくるため根負けし、フラッシュ厳禁で撮影許可となった。しかし、そのため有名な名画がホームページに掲載できるようになった。もっとも、フラッシュを焚いたことで怒声に近い叱責が時折聞こえてもいた。撮影禁止だった以前のホームページは建物の外観だけだったが、ポティチェッりの『ヴィーナス誕生』、『春』、レオナルド・ダ・ヴィンチの『受胎告知』、片目を隠すため横顔のウルビーノ公爵夫妻の肖像などを撮ることが出来た。いつ出来たのかテラスがあり、ヴェッキオ宮殿とフィレンツェ大聖堂がよく見える。
メドゥーサの首をもつペルセウスなどの像が並ぶロッジア・ディ・ランツィ、ミケランジェロ作のダビデ像(レプリカ)とヘラクレスとカクス像が立つヴェッキオ宮殿、ネットウーノ(ネプチューン)の泉と続くシニョリーア広場の端まで入場待ちの列が続く。シニョリーア広場からゴンディ通り、ボルゴ・デイ・グレーチと歩き、ダンテ、マキャベッリ、ミケランジェロ、ロッシーニなど著名人の墓があるサンタ・クローチェ教会を経てアルノ川河畔を歩き、バスに乗る。
ダビデ像(レプリカ)が立つミケランジェロの丘はフィレンツェの南にある丘で、市内が一望できる。特徴ある外観から、左からアルノ川に架かるベッキオ橋、ドゥオーモ フィレンツェ大聖堂、ヴェッキオ宮殿、サンタ・クローチェ教会が並ぶ。
黄葉の田園地帯を行き、ワイン醸造工場を持つアグリトゥーリズモ(農場レストラン)で昼食を取る。名物のTボーンステーキが出るが、連日の大量の食事に胸焼けしており、半分も食べられなかった。サン・ジミニャーノの中世封建時代の支配階級の家々は、自らの富と力の象徴として72におよぶ塔を住居として建てた。石畳の道が続く城内を歩くが、腰の負担が大きく、フィレンツェ市内に続いて腰痛が再発してしまった。
ミラノから離れたものの、車窓からの眺望がひらjけなかった濃霧に若干悩まされたが好天のピサに向った。斜塔のあるドゥオーモ広場は自動車乗り入れが出来ないので、一旦駐車場に入り、そこからシャトルバスに乗り換える。多くの中国人団体客がうろついて嫌な予感がしたが、何故か同じバスではなかった。約10分で斜塔のあるドゥオーモ広場前に着き、土産物店街を歩いて城壁の入口に向かう。
城壁の入り口から入って、まさか洗礼堂、大聖堂(ドゥオーモ)、鐘楼(斜塔)の3点セットが有るとは思わなかった。札幌の時計台のように、多くの建物の一角に斜塔があると思っていた。斜塔は想像していたほど傾いてはいないのが残念である。多くの女性観光客が倒れかかる斜塔を支える写真を撮っていた。人と斜塔との位置関係が難しく、何度も撮り直しをせざるを得ない。斜塔への入口であ機関銃を持った3名の兵士が立ち会う中、たった1人の係員が手荷物の中身を改め、手持ちのX線検査機でボディチェックを行うため、時間がかかり、長い入場者の列ができている。大聖堂(ドゥオーモ)にはガリレオの振り子の模型が飾られている。 シャトルバスでドゥオーモ広場観光客専用駐車に戻り、車窓からピサの城壁の遺構を見つつ高速道路に乗り、フィレンツェ経由で南下しローマに向かう。ホテルはローマの中央駅であるテルミニ駅近くのレププリカ広場(共和国広場) ナイアディの噴水の傍である。この噴水は前回のローマ訪問でスペイン広場から歩いて周辺を散策しており、位置関係がすぐ分かった。
H271208-09 ローマ〜羽田
「いつくしみの聖年」の特別聖年の開始日に当たり、交通規制が厳しく何が起こるか分からなため、観光バスではなくバンで移動した。又、予定のヴァチカン美術館は翌日の出発前に行うことにした。本来はホテルから歩いてスペイン広場やトレビの泉に行くことができるが、バンでトレビの泉に出かけた。3年半前に来た時は観光客で大混雑で、コインを投げるために泉の前に近づくのに苦労したが、今回はほとんど観光客もおらず、気が抜けた。スペイン広場ではマリア像の塔で教皇が「無原罪の聖母」の大祝日のミサを行うための準備に追われ、スペイン階段は封鎖されていた。
3年半前にローマに来た時は、コロッセオ広場で外からコロッセオとフォロ・ロマーノを眺めただけだった。今回はそれぞれ内部に入って見物することにしており、別ページにまとめた。間近に見るコロッセオの高さは3階建、48.5mであり、さすがに大きい。コロッセオ広場のコンスタンティヌスの凱旋門の向かいにある入口からフォロ・ロマーノに入ろうとしたが閉鎖されており、フォロ・ロマーノ沿いにフォリ・インペリアリ通りを西進して別の入口に向かう。
コロッセオに入り、奥の高齢者、身障者用エレベーターで3階に上る。コロッセオの1階は貴族などVIP席、2階は一般席、3階は立ち見席だった。コロッセオの第一印象は大きい!!で、外周が527m、高さは48.5m、約5万人を収容したことを実感する。色々の国の観光客とともに外周を歩き、2階に降りる。舞台の床がなく、地下の様々な施設がよく見えるが、かつては人力エレベータで人や動物を迫り上げていたそうである。
フォロとは公共広場のことで、古代ローマ帝国の政治、経済、宗教の中心だった場所である。入口から入った途端に感じたのは「瓦礫の山」である。円柱が3本か、8本かで建物の区別がついたり、1面の壁しか残ってないとか、階段だけのものもある。現地ガイドは次々に建物の名前と来歴を説明して先に進むが、聞いている方は写真を撮って後を追うので精一杯である。瓦礫の山を歩いて西端のセヴェレスの凱旋門に至る。
フォロ・ロマーノの西端のタブラリウム、サンティ・ルカ・エ・マルティーナ教会、聖ペトロが殉教前にこの牢獄に収監されていたという言い伝えがあるマメルティヌスの牢獄を経て、カピトリーノ美術館があるカンピドーリョ広場に出る。広場から白亜のアラコエリのサンタ・マリア聖堂を見つつ階段を下り、バンに乗る。サン・ピエトロ大聖堂に行きたいが、色々と規制がありレププリカ広場(共和国広場)のサンタ・マリア・デリ・アンジェリ教会、ナイアディの噴水やベネティア広場のヴィットーリオ・エマヌエーレ2世記念堂を見つつ、サン・ピエトロ広場正面のコンチリアツィオーネ通りに着く。
あちこちの入口で警備の警官に制止され、結局サン・ピエトロ大聖堂に続くコンチリアツィオーネ通りの検問所でバンをおりた。手荷物検査の検問所では長い列が出来ており、サン・ピエトロ大聖堂まで牛歩で進むしかない、と覚悟を決めた。ところが検問所を出たらほとんど観光客がいない広い道が眼前に広がった。結局いつくしみの聖年の開始日で、規制の厳しさから逆に観光客が自己規制したのだろう、と言うのが現地ガイドの言である。サン・ピエトロ広場入口での再度の手荷物検査を終え、午前中に教皇が開けた聖年の扉から入場する。大聖堂の中央身廊には入れず、内陣もミサをする信者のみなので、右側廊のミケランジェロ作ピエタ像や、中央身廊 御変容の祭壇のラファエロの傑作を元に作られたモザイク画ぐらいしか見られなかった。サン・ピエトロ広場に出てスイス傭兵の交代式や、クリスマスツリー、イエス誕生の馬小屋などを見てコンチリアツィオーネ通りを戻る
城壁沿いのヴァチカン美術館入口から入り、名物の螺旋階段脇の長いエスカレータで上り、大きな松ぼっくりが飾られたピーニヤ(松ぼっくり)の中庭に出る。ベルヴェデーレの八角形の中庭のベルヴェデーレのアポロン、ラーオコーンを見た後、ユピテルに扮したクラウディウス帝像などが並び、半球ドームの格天井やモザイク画の床の円形の間、聖ヘレナの石棺と続く。更にタペストリーのギャラリー、地図のギャラリー、署名の間のラファエロ作アテナの学堂と過ぎる。この後システィーナ礼拝堂に行き、ミケランジェロによる創世記に題材をとった天井画や、最後の審判を見たが、これは撮影禁止である。最後の審判は90〜94年にかけて修復され、特に青色は最近作画されたように鮮やかである。
ミュンヘンに向かうルフトハンザ航空で搭乗手配をする。いつもハラハラするのが重量オーバーであるが、今回は問題なかった。又、行きのヒースロー空港でさんざん手間どったパソコンやタブレット関係も周りを衣類で囲んでスーツケースに入れ、保安検査でのトラブルが起きないようにした。
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