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甘泉園公園〜水稲荷神社〜早稲田大学

【関連サイト】   早稲田界隈の桜散策H230411(西早稲田パークタワー〜堀部安兵衛之碑〜甘泉園)
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 新目白通り 神田川に架かる仲之橋を渡る 新目白通り 神田川に架かる仲之橋を渡る 

仲之橋を渡り左折、新目白通りを東進する。
新目白通り 神田川沿いに東進 新目白通り 神田川沿いに東進 

金木犀は独特の甘い香りがする。
新目白通り 西早稲田パークタワー交差点で右折 新目白通り 西早稲田パークタワー交差点で右折 

中央の高層マンションが西早稲田パークタワーで、ここから都道418号(環状4号線)の坂を上ってグランド坂、早稲田通りが交差する西早稲田交差点に出る。

都道418号(環状4号線)は未完成部分が多く、この交差点から目白方向への道路は現道なしである。
西早稲田パークタワー交差点から新目白通りを戻り、マンション横の角から小道を歩く 西早稲田パークタワー交差点から新目白通りを戻り、マンション横の角から小道を歩く 

新目白通りを西に戻り、最初の小道で左折、道なりに西進する。(コース地図参照)
甘泉園公園入口から入園 甘泉園公園入口から入園 

甘泉園公園の入口から入ると児童コーナーとテニスコートがある。
甘泉園公園 甘泉園公園案内図 甘泉園公園 甘泉園公園案内図 

現在地は左上角である。ここから南東の日本庭園進み、水稲荷神社に向かう。
甘泉園公園  甘泉園 案内 甘泉園公園  甘泉園 案内  

 甘泉園という名は、園内に湧き水があり、清冽で常時涸れず、また、茶に適したところから起ったものであリ、その由来を書きしるした石碑が、園の南東に当たる水稲荷神社の社務所脇に現存している。
 この地は、江戸中期の安永三年(一七七四年)徳川御三卿の一つ、清水家の下屋敷がおかれたところである。明治二十年ごろ、相馬家の所有となったが、昭和十三年早稲田大学に移譲された。
 戦後、都はこの地を買収し、改修の手を加えで、昭和四十四年、区ヘ移管した。
 庭園は、神田川右岸を東西に走る台地の北面の傾斜地とその低地にあって、段丘の高低差を利用し、泉の水を引いた池を廻遊する林泉になっている。
 池傍より見上げる雄大な常緑樹林に囲まれ、春のツツジ秋の紅葉が水面に写り、美事な景観を創り出しでいる。
甘泉園公園  甘泉園(日本庭園) 入口 甘泉園公園  甘泉園(日本庭園) 入口 

公園の生い主ち

 甘泉園公園の地は、江戸時代、徳川御三卿のーつである清水家の下屋敷があった場所であり、明治時代になって相馬家が購入し、屋敷や庭園を整備しました。
昭和に入り早稲田大学の所有となり、学校関係者等に利用されていました。
 その後、昭和32年に都市計画公園として計画決定がなされ、東京都が用地買収を行い、昭和43年から公園整備工事が行われました。完成後に新宿区が東京都から移管を受け、昭和44年7月、新宿区立甘泉園公園として開園しました。
 公園名は、かってこの地の湧水が清冽で常時枯れず、又お茶に適するところから「甘泉」と呼ばれていたことに由未しています
甘泉園公園  甘泉園(日本庭園) 下池 甘泉園公園  甘泉園(日本庭園) 下池 
甘泉園公園  甘泉園(日本庭園) 上池 甘泉園公園  甘泉園(日本庭園) 上池 
 甘泉園公園  甘泉園(日本庭園) 上池沿いに丘を上る 甘泉園公園  甘泉園(日本庭園) 上池沿いに丘を上る 

甘泉園(日本庭園)は新目白通りから丘を上り、水稲荷神社に向かう。
 甘泉園公園  甘泉園(日本庭園) 上池沿いに丘を上る 甘泉園公園  甘泉園(日本庭園) 上池沿いに丘を上る 

甘泉園公園  甘泉園(日本庭園) 水稲荷神社方面出入口 甘泉園公園  甘泉園(日本庭園) 水稲荷神社方面出入口 
水稲荷神社 参道 鳥居 水稲荷神社 参道 鳥居 
水稲荷神社 社殿 水稲荷神社 社殿 

水稲荷神社は、『江戸名所図会』に描かれた当時、「高田稲荷」とよばれていました。
中央付近の小高い丘の上にあるのが、水稲荷神社(高田稲荷)で、ここは現在の早稲田大学9号館裏のあたりです。
右上の山は、高田富士で、水稲荷神社(高田稲荷)とともに、昭和38年(1963)に西早稲田3丁目の現在地に移転しました。
 水稲荷神社 社殿 右横から裏を巡る 水稲荷神社 社殿 右横から裏を巡る 

社殿の裏には富士塚がある。
水稲荷神社 参道を東進 鳥居 水稲荷神社 参道を東進 鳥居 
水稲荷神社 参道 甘泉園(日本庭園) 水稲荷神社方面出入口 水稲荷神社 参道 甘泉園(日本庭園) 水稲荷神社方面出入口 
 水稲荷神社 参道 堀部安兵衛之碑 水稲荷神社 参道 堀部安兵衛之碑 

堀部安兵衛が高田馬場仇討のあと、刀の血を洗ったという血洗いの池は学習院大学の目白キャンパスにある。

JRのイベントの時はすんなりと入構できたが、個人で入ろうとしたら守衛に誰何され、西門(目白駅前)の守衛所で手続きが必要と言われて断念した。
 水稲荷神社 参道 堀部安兵衛之碑 水稲荷神社 参道 堀部安兵衛之碑 
水稲荷神社 参道 堀部武庸加功遺跡之碑 水稲荷神社 参道 堀部武庸加功遺跡之碑 

 この記念碑は、「忠臣蔵」における代表的説話てあり、地域の伝承として知られる「高田馬場の決闘」(元禄七年)における赤穂浪士・堀部安兵衛(一六七〇〜一七〇三)の事績を顕彰する記念碑てある。江戸時代に高田馬場の菅理を委託されていた甲州屋の子孫・行田久蔵が、明治四十三年(一九一〇)に建立した。
篆額は西園寺公望、撰文は信夫恕軒、書は日下部東作、鐫は堀部忠蔵の手になる。また、賛助者には頭山満・犬養毅・大隈重信・三田村鳶魚など当時の名士が名を連ねている。当初は茶屋町通りにある久蔵の植木園に建てられたが、昭和四十六年(一九七一)に現在地に移された。綜高は約三五○cmである。
 この記念碑が建てられた当時は、日露戦争後の国ぶ国家主義の高揚を背景とし、「忠臣蔵」の再評価が高まった時代であった。また明治から大正にかけては全国的に建碑ブームが巻き起こり、歴史上の事象や人物に関する懸賞運動が盛んな時代でもあった。
水稲荷神社 参道 水稲荷神社前交差点で右折、都道418号(環状4号線)へ 水稲荷神社 参道 水稲荷神社前交差点で右折、都道418号(環状4号線)へ 

正面は早稲田大学の西早稲田ビルである。
グランド坂を下る グランド坂を下る 

都道418号(環状4号線)の坂を上り、早稲田通りの西早稲田交差点手前の交差点で左折、グランド坂に出て下る。

今はないが、安部球場に因んでグランド坂通りと言われる。
グランド坂 早稲田大学北門から構内へ グランド坂 早稲田大学北門から構内へ 

グランド坂を挟んで北門の反対側に総合学術情報センター(旧 安部球場)がある。ここにかつて野球場があった。第二次世界大戦前は戸塚球場と呼ばれ、戦後は安部球場と称されて早稲田の歴史を共に歩み、全早稲田人に親しまれてきたグランドである。
早稲田大学 早稲田キャンパスを南下 早稲田大学 早稲田キャンパスを南下 

突き当たりのメイン道路で右折すると大隈侯銅像があり、その先に大隈記念講堂が見える。
早稲田大学 早稲田キャンパス 大隈侯銅像 早稲田大学 早稲田キャンパス 大隈侯銅像 
早稲田大学 早稲田キャンパス 大隈侯銅像 早稲田大学 早稲田キャンパス 大隈侯銅像 
早稲田大学 早稲田キャンパス 大隈記念講堂 早稲田大学 早稲田キャンパス 大隈記念講堂 

ここまで頑張ってきたが、持病の腰痛が耐えられず、KSN の参加者にお詫びを言ってリタイアした。この後大隈庭園内にある学生食堂で昼食をとり、演劇博物館穴八幡宮、戸山公園と巡る予定だった。



 
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