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早稲田通り 馬場下町交差点 穴八幡宮
交差点を渡って左角に穴八幡宮の赤い鳥居が見え、左折すると早稲田大学文学学術院(旧文学部)である。
「文学学術院」と改称されたが、どうも一文、二文の方が馴染んでいる。吉永小百合の二文でもある。 |
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早稲田通り 馬場下町交差点 穴八幡宮
穴八幡宮神社は、 源義家が奥州征伐の帰りに、この地に兜と太刀を奉納したのが始まりと伝えられる。江戸時代、 敷地内に不思議な穴が見つかり、金属製の阿弥陀像が出土したことから、穴八幡宮というようになった。一般には穴八幡と呼ぶ。 |
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早稲田通り 馬場下町交差点 穴八幡宮 高田馬場の流鏑馬
享保十三年(一七二八)徳川将軍吉宗が世嗣の疱瘡平癒祈願のため、穴八幡神社へ奉納した流鏑馬を起源とし、以来将軍家の厄除けや若君誕生の祝いに高田馬場で流鏑馬が奉納された。
明治維新以降中断し、昭和九年に皇太子(現天皇)誕生祝いのため再興され、数回行われだが、戦争のため中断された。昭和三十九年流鏑馬の古式を保存するため、水稲荷神社境内で復活し、昭和五十四年からは都立戸山公園内に会場を移し、毎年十月十日高田馬場流鏑馬保存会により公開されている。
古式豊かで勇壮な高田馬場の流鏑馬は、小笠原流によって現在に伝えられており、貴重な伝統行事である。 |
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早稲田通り 馬場下町交差点 穴八幡宮 |
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早稲田通り 馬場下町交差点 穴八幡宮 |
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早稲田通り 馬場下町交差点 穴八幡宮 随神門
馬場下町交差点の赤い鳥居では小社と見えるが、丘の上に上ると意外に広い。 |
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早稲田通り 馬場下町交差点 穴八幡宮 布袋像の水鉢
慶安二年(一六四九)の紀年銘がある水鉢で、同年将軍家光が江戸城吹上御苑にあったものを穴八幡神社へ奉納したと伝えられている。
布袋像は、左足を立てて水鉢を脇にかかえ、容姿は中国近世の弥勒像に類似し、作柄も優れている。
他に類例のない特異な形をしており、また布袋像の古様を示すものとして貴重である。 |
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早稲田通り 馬場下町交差点 穴八幡宮 本殿 |
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早稲田通り 馬場下町交差点 大隈侯御用達の蕎麦屋 三朝庵
早稲田には三朝庵を始め、金城庵、高田牧舎など伝統ある店が多い。 |
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早大南門通りを北上 |
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早大南門通りを北上
平成26年卒業の学生の就職説明会が12月1日から始められる。そのため、「就職の悩み、一掃。内定塾」の幟が強風にはためく。 |
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早大南門通り レストラン 高田牧舎 |
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早稲田大学 早稲田の象徴 大隈講堂
創始者の大隈重信侯爵の遺志を汲み、昭和2年(1927年)に建設された。時計塔の高さは125尺(約38m)で、これは大隈侯の人生125歳説に因むことで有名。
年に1回のホームカミングデーなどのイベント時には、普段は見ることのできない時計台の中や大礼服の大隈侯銅像などを見ることが出来る。 |
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早稲田大学 大隈庭園、大隈会館 |
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早稲田大学 大隈庭園 遊歩道
大隈会館がある正門の右手の遊歩道に向かう。 |
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早稲田大学 大隈庭園 遊歩道
残念ながら時間が早いのか、休園で中には入れなかった。 |
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早稲田大学 大隈庭園 遊歩道 |
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早稲田大学 大隈庭園 遊歩道 平和祈念碑碑 |
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早稲田大学 大隈庭園 遊歩道 平和祈念碑碑 |
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早稲田大学 大隈庭園 遊歩道 平和祈念碑碑
平和祈念碑碑文
征く人のゆき果てし校庭に音絶えて
木の葉舞うなり黄にかがやきて
この歌は、太平洋戦争当時のー女子学生が詠んだものである。
学生のいないところに教育は成り立だない。平和こそ教育の原点であることを、この歌は痛いほど明確に教えてくれている。戦争のため志半ばにしてたおれた早稲田大学関係者への鎮魂の思いをもこめて、今ここにこの碑を建てる。
1990年大学創立記念の日
早稲田大学第十二代総長
西原春夫 |
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早稲田大学 大隈庭園 遊歩道 平和祈念碑碑
平和祈念碑は、第二次世界大戦で犠牲となった本学教職員・校友・学生約4300名の方々の御霊を慰め、平和を祈念するため、1990年の創立記念日に建立されました。
祈念碑の裏面に刻まれた歌は、多くの学生が戦場に赴き、人影の疎らになった寂しい学園風景を、当時の女子学生・宇津宮満枝氏が詠んだものです。
毎年、ホームカミングデー当日の朝には、総長をはじめとする大学関係者により、英霊への鎮魂と平和を祈念し、献花が行われます。 |
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早稲田大学 大隈庭園 遊歩道からの風景 |
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早稲田大学 大隈庭園 大隈会館前からの風景 |
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早稲田大学 大隈庭園 大隈会館 |
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早稲田大学 大隈庭園 大隈会館前 応援歌 紺碧の空の碑
「紺碧の空」誕生の由来
早稲田大学応援歌「紺碧の空」は昭和六年春大学体育会応援部創設にあたり、歌詞は応援部により学内学生から公募して誕生した、
作詞 住 治男 作曲 古関 裕而
選者の西条八十教授は高等師範部三年生の住治男氏の「紺碧の空」を一字の修正もなく選出した。
作曲は当時無名の若き新進作曲家であった古関裕而氏に決定した。
この応援歌は同年春の早慶戦で披露され、今や代表的応援歌として広く愛唱されている。
碑は歌の生誕四十五年を記念して、春秋会の募金活動により昭和五十一年に建碑された。
ここに「紺碧の空」誕生八十年、春秋会設立六十周年にあたり、その出来を記す。 |
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早稲田大学 大隈庭園 大隈会館前 応援歌 紺碧の空の碑
紺碧の空は応援歌ではあるが、第2校歌とも言うべき名歌である。神宮球場は言うまでも無く、飲み会、同期会と何度歌ったか分からない。
碑の形は「早稲田ナショナリズム」と揶揄される「W」である。このような表現はあちこちで見ることが出来る。 |