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百万石通りを東進 市媛神社 |
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百万石通りを東進 博労町交差点 |
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百万石通りを東進 尾張町 |
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百万石通りを東進 尾張町 旧商家街 町民文化館
県指定有形文化財 「町民文化館」
明治40年に旧金沢貯蓄銀行として建築、合併により北陸銀行尾張町支店となったが、その後、県に寄贈され、昭和51年に県指定有形文化財に指定された。郷。土資料館(現石川県立歴史博物館)分館を経て、昭和61年から「町民文化館」として開館している。
外観は、反りのある入母屋造の大屋根の上に、一対の鯱を立てている。黒漆喰の壁面や赤戸室石の積まれた腰回りは、建物の重厚さを際立たせており、銀行への信用度を高めることに役立っている。内部の意匠は、洋風にまとめられており、フルーティング(溝彫り)を施した付柱、扉上部のペディメント、正面壁中央の大アーチなど、魅力的な空間が広がっている。
伝統的な土蔵造りの外観に対し、洋風意匠の内部空間を組み込んだ和洋折衷の銀行建築であり、明治期の地方銀行の姿を伝える貴重な遺構である。 |
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百万石通りを東進 尾張町 旧商家街 町民文化館 |
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百万石通りを東進 尾張町 旧商家街 町民文化館 |
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百万石通りを東進 尾張町 旧商家街 老舗交流館 |
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百万石通りを東進 尾張町 旧商家街 薬種福久屋 石黒 希清軒 |
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百万石通りを東進 尾張町交差点 |
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百万石通りを東進 尾張町 旧商家街 線香・蝋燭 黒田香舗
尾張町は業種は様々だが、如何にも江戸時代、という感じの商家が並ぶ。 |
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百万石通りを東進 尾張町 旧商家街 諸油問屋 森忠商店 |
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百万石通りを東進 尾張町 坂を下った所は橋場交差点 |
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百万石通りを東進 尾張町 石川県里程元標、ガス燈 |
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百万石通りを東進 尾張町 石川県里程元標、ガス燈 |
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百万石通りを東進 尾張町 ガス燈の記
このガス燈は明治時代のイメージを後世に残すため、明治四十一年十一月市内で最初にガスが供給された尾張町のこの地に復元したものです。 |
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百万石通りを東進 尾張町 枯木橋・その名の由来
枯木橋は、現在架かっている橋ても百年以上の歴史を有していますが、その歴史はさらに遠い昔に遡ることができます。金沢が蹟史(森田平次著 明治25年完成)という書物に枯木橋の名の由来が載っていますのでご紹介しましょう。
由来ー1
久保市乙剣宮の社記に、「織田信長の命を受けた佐久間盛政と一向一揆勢力が争った元亀・天正の乱(1570年代)で、神社一帯が焼き払われ、境内の林も焼かれて枯れ木の林になってしまった。その枯れた林が年を経てもそにまま立っていたので、このあたりの橋を桔木橋と呼んでいる。
由来ー2
「越登加三州志」という本に、「この橋は、正保1644〜1647年)の頃までは丸木を並べていて山間の渓谷にかかる橋のようであったが、その橋の傍らに枯れ木が一株あったので、人が枯木橋と呼んている。
由来ー3
「亀の尾の記」という本には、「この橋も丸木を縦に並べたものてあるが、橋の脇に榎木があったが、後に枯れてしまった。その木が近年まで残っていたので橋の名前になった。」
これらのことから、橋の歴史は今から約四百年も前に遡ることがてき、その名は、橋の傍らに枯れ木があったことに由来するといえそうです。
惣構堀と枯木橋
枯木橋は、東内惣構堀という堀に架かっています。惣構というのは、城の最も外にめぐらした土や石の囲いのことで、その堀が惣構堀てす。慶長4年(1599)、第二代藩主前田利長は、城下の防備のために家臣を総動員してわずか27日間で金沢城を取り囲む2つの堀を築きました。これが東内惣構堀と西内惣構堀です。さらに慶長16年には、東西の外惣構堀が造成されました。
東内惣構堀は、小尻谷町に始まり小将町、賢坂辻を通り味噌蔵町、橋場町を経て枯木橋をくくり抜け浅野川に注ぐもので、全長が11町30間(約1.3km)あります。残念ながら、今では惣構堀の面影を残すところは、ほとんど見られなくなってしまいました。 |
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百万石通りを東進 尾張町 枯木橋・東内惣構堀 |
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百万石通りを東進 尾張町 枯木橋・東内惣構堀 |
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百万石通り 橋場交差点で左折、城北大通りへ |
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百万石通り 橋場交差点 金沢文芸館・金沢五木寛之文庫 |
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百万石通り 橋場交差点 金沢文芸館・金沢五木寛之文庫 |
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城北大通り 橋場交差点 八百萬本舗
右の古民家風商店の八百萬は「やおよろず」と読み、雑貨、お土産、お菓子などを扱っている。 |
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城北大通り 浅野川大橋 南詰 界隈案内図 |
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城北大通り 浅野川大橋 南詰 |
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城北大通り 浅野川に架かる浅野川大橋 |