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百万石通りを南下 上堤町交差点
野村證券、大和証券、日本生命などの大企業の店舗が建ち並ぶ。 |
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百万石通りを南下 尾山神社前交差点で左折 |
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百万石通りを南下 尾山神社前交差点で左折、尾山神社へ |
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百万石通りを南下 尾山神社前交差点 旧南町石碑
旧南町由来の碑である。
佐久間盛政が城主のころ城の南にあったので、この名がついた。文禄元年この地に移転したが、寛永十二年の移転説もある。 |
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金沢 尾山神社
尾山神社前交差点で左折すると、正面に特徴ある神門が見える。
初代加賀藩主前田利家公と正室おまつの方を御祭神とする当神社は、明治六年(一八七三)に歴代藩主の別邸であった金谷御殿跡に建立された。 ギヤマンがはめ込まれたり、和・漢・洋折衷様式を見せる神門は、異国情緒漂う造り。東神門は金沢城で唯一残る桃山風御殿様式の門で、旧金沢城二の丸にあった唐門を移築したものである。 旧金谷御殿の庭であり、築山池泉回遊式の庭園は、江戸末期に作庭されたもので、かつて辰巳用水を引きいれた池には、三つの島と趣向を凝らした橋が配され、書院庭園の面影を色濃く残している。 |
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金沢 尾山神社 |
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金沢 尾山神社 界隈案内図
尾山神社の東側に金沢城がある。金沢駅へ戻る時に乗ったタクシーの運転手によれば、数年後には両者を結ぶ道が出来、観光が楽になるとのことである。 |
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金沢 尾山神社 神門
明治8年の建築で、和漢洋の三洋式を混用した異色の門として全国に知られ、兼六園と共に金沢市のシンボルにともなっています。第一層には戸室石(角閃安山岩)を用いてあり、第三層は四面五彩のギヤマン張りで、もとは御神灯が点灯され、その放つ光は金沢の街を照らし、また遠く日本海を航行する船の目標たらしめたものです。なお第三層目に設置された避雷針は、日本最古のものです。 |
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金沢 尾山神社 神門
神門の扉には前田家の梅鉢の紋がある。 |
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金沢 尾山神社 拝殿
中央天井は格天井作りで各間毎に岩絵具による極彩色のうどんげの花が美しく描かれています。これは旧金谷御殿から移築したものです。欄間は約八寸厚の欅の一枚板に見事な梅花紋を透彫にし、極彩色の華麗な彫刻で、これもまた旧金谷御殿から移築したものです。
30年ほど前に尾山神社で行われた大阪勤務時代の部下の女性の結婚式を思い出した。
こんな伝統と格式ある神社で結婚式ができるのか、と当時思ったが、東京に戻ったら姪が湯島天神で結婚したり、明治神宮や鶴岡八幡宮での結婚式も何回も目にした。 |
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金沢 尾山神社 神苑にひかれた導水管
三代藩主利常公の頃(一六三二年)犀川上流から金沢城へ導水した辰巳用水が完成しました。それを機にその一部を分岐して金谷御殿(現在の尾山神社)にもサイフォンの原理を応用し、巧妙な仕組みで兼六園の水を引水し、響音瀑とよばれる滝をつくりました。
当初水路は木管でつくられていましたが、天保十五年(一八四四年)に庄川上流の金谷石で調整した石の導水管に取り替えられました。
昭和にはいり道路整備等で水路は断たれましたが、近年発見された当時の石管は、長さ一メートル前後・三九センチ角の石に経十八センチのパイプ状に穴を開けた両端にホゾがつけられ、重さは約一五〇キロあります。これを兼六園より暗渠でつなぎ、継ぎ目は樹脂で固め漏水を防いだものであります。 |
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金沢 尾山神社 神苑にひかれた導水管 |
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けいだいにさく金沢 尾山神社 神苑に咲く紅梅 |
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金沢 尾山神社 拝殿 |
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金沢 尾山神社 利家公 金鯰尾兜 |
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金沢 尾山神社 利家公 金鯰尾兜
利家公 金鯰尾兜 高桑剣月
加能分断 敵勢迫り
士卒奮戦 牙城を守る
敵も人 我も人 赴援に赴く
士気鼓舞す 鯰尾の兜
乾坤一擲 雌雄を決す
宿敵敗走 凱歌挙る
威風堂々 金色の兜
燦然として北陸王道に輝く
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金沢 尾山神社 利家公 金鯰尾兜
利家公 金鯰尾兜
天正十二年(一五八四)九月越中の佐々成政が能登末森城に侵攻 急報を受けた前田利家が金鯰尾兜を着用し 金沢城から出陣末森へと救援に逝く 成政軍を敗走させ凱歌を挙げる 金鯰尾兜が燦然として輝き 北陸王道を歩む 前田利家公の勇姿が偲ばれる 加賀百万石藩祖前田利家公没後四百年を記念して末森合戦に着用した利家公金鯰尾兜を前田家ご当主 前田育徳会 尾山神社のご理解をいただき 模造製作し 境内のこの地に建立 公の偉業と徳を讃える |
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金沢 尾山神社 授与所 拝殿
平成27年秋に完成したばかりの新しい授与所。開放的なガラス張りのデザインで、施設内には、金沢城など市内の観光地の四季の風景を映し出すディスプレイを設置してあります。
授与所は各種のお守りなどを拝受し、休憩所にもなっている。
雨は小降りで傘をさすほどではないが、風があって寒く、持病の腰痛のため暫時休憩した。 |
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金沢 尾山神社 お松の方之像
お松の方座像
名は「まつ」といい 前田利家の正室で 天文十六年(一五四七)七月九日尾張の国に生れる 十ニオの時に九才年上の 前田利家に嫁ぎ二男九女を儲ける 賤ヶ岳の戦いには 柴田勝家に味方して敗れた夫前田利家に代わって壁臣秀吉との和議に尽力された お松の方ば利家と戦国乱世を共にし 加賀藩を外柔内剛にて支えられました 利家没後は芳春院と号す 慶長五年(一六〇〇)徳川家康が 前田家に嫌疑をかけた際 人質として江戸にて 十五年間忍従に耐えぬき 慶長十九年(一六一四)金沢に戻った 元和三年(一六一七)金沢城にて七十一才の生涯を終える 正に戦国烈女の鑑であり 加賀百万石の母と敬われる
平成十四年NHK大河ドラマ「利家とまつ 加賀百万石」放映決定を記念し 前田家ご当主 尾山神社のご理解をいただき 若き日のお松の方の坐像を境内のこの地に建立 お松の方の徳を万古に讃える |
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金沢 尾山神社 お松の方之像 |
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金沢 尾山神社 お松の方之像 |
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金沢 尾山神社 神苑
旧金谷御殿の庭園であって、古代舞楽の楽器を模した地泉廻遊式の名園です。神苑の水は、三代藩主利常公の命により完成した辰巳用水の水を高低差を利用して、兼六園から暗渠で導き、響遠瀑から落としていました。現在は、当時の水路が断絶したので、井戸を堀り地下水を池に流しています。 |
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金沢 尾山神社 利家公像
織田信長公に仕え青年時代は赤母衣衆として従軍しました。槍の名手だったため、「槍の又左」の異名をもって敵軍に怖れられました。 |
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金沢 尾山神社 利家公像
母衣「ほろ」について
流れ矢を防ぐために、鎧(よろい)の背にかけた布のことを言います。
その後時代の推移により風にふくらんだ形を示すために、竹串、鯨の骨類、ひげ等を骨組みに入れるようになり、これを母衣と呼びました。
戦国時代(西暦一五六〇年頃)に騎馬武者は、これを背に戦場を駆け巡り連絡の役をつとめました。このような騎馬武者を母衣衆と呼びました。
織田軍団の母衣衆は、佐々成政を筆頭とした十人の黒母衣衆と、前田利家を筆頭に九人の赤母衣衆とで合計十九人でした。
そして、戦闘となれば、諸隊のガイド的役割もあり、敵にとって目に付きやすく、大変危険でもありました。 |
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金沢 尾山神社 神門 |
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金沢 尾山神社 鳥居 |