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掲示板(一言どうぞ)
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02仁和寺〜京都御苑〜時代祭〜上賀茂神社R011026
経路 A:リーガロイヤルホテル京都〜B:仁和寺〜C:京都御所(時代祭)〜
D:上賀茂神社〜E:リーガロイヤルホテル京都
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仁和寺(観音堂〜御殿)〜京都御苑
6年前(平成25年)に市営地下越北大路駅から洛北散策ということで、大徳寺、金閣寺、龍安寺、仁和寺、大覚寺、天龍寺と歩いた。その時は金閣寺から龍安寺を経て仁和寺に至るきぬかけの路を歩き、二王門から入り、御殿を経て中門。五重塔、金堂と巡ったが、観音堂は修理工事中だった。今回のツアーは観音堂の修理が完了し、公開された壁画の拝観が目的である。観光バス駐車場から東門、中門を通り、観音堂に向かい60人ほどまとまって拝観した。撮影厳禁なのが残念だが、時間を感じさせる見事な壁画で、中央の千手観音からは糸が外にたらされ、堂外の二本の柱を介して縁を結ぶことができる。中門を通ってすぐ右にある名勝 御室桜は人の背の高さほどしかなく、開花時の様子はどうだろう、と思わせる。
参道を南下し二王門横の本坊御門から御殿に入る。6年前(平成25年)も10月だったが、初旬で残暑が厳しく庭園を鑑賞しつつ休憩したが、今回はツアーということもあるが少し寒いくらいの涼しさだった。大玄関から南庭前の勅使門、白書院と歩むが、中核をなす宸殿が修復工事中で見物も出来ないが全体の景観を防護編みなどで分断しており、興を削ぐこと甚だしい。前回観音堂が拝観できない代わりに宸殿をじっくり見ているので不満はない。
仁和寺を出る頃から天気は良くなり、雲は多いが晴れてきた。時代祭なので観光バスは今出川口の臨時駐車所用となり、そこから長い築地塀を南下、建春門先で角を右に曲がり、築地塀沿いに建礼門に向かう。時代祭は建礼門前から南下する広い道を行進する。建礼門前にはテントが張られ、行進参加者が準備作業を進めている。行進する広い道の両脇にはパイプ椅子の有料席が設けられているが、行列開始の建礼門前は招待席で、一般の有料席は道の半ばより南である。そのため、建礼門からかなりの距離を歩き、入口で昼食の弁当を受け取る。
時代祭R011026
時代祭は、平安神宮の創建と同時にその維持母体として組織された全市にわたる市民組織「平安講社」によって執行されている。行列は、明治維新から平安時代へ遡る倒叙法で構成され、当初6列であった行列も、折々に逐次加増され、現在は20列、およそ2000余名の大行列となっている。建礼門前を出発する行列の紹介は会場に設けられた大音量のスピーカーで行われるが、見物する場所は見物席のかなり南であり、その時差は大きい。時代祭の行列は知事、市長、議長などが務める名誉奉行の行進から始まり、明治維新のピーヒャララ、ドンドコドンの音楽隊、維新の志士、七卿落ちなどの行列が続く。江戸時代は徳川城使上洛列、和宮や吉野太夫などの婦人列、豊公参朝列の始まりまで続く。
安土・桃山時代の豊公参朝列として浅野長政、石田三成など5奉行が大名の代表として行列する。参朝の際、その日だけ特に許された規定外の「一日晴れ」といわれる衣冠装束で、官位・家柄にかかわらない華麗な装束に武家風の太刀をつけている。続いて織田公上洛列では織田信長、羽柴秀吉、柴田勝家など重臣が並ぶ。行列も長くなり、つかえて列が進まなくなったり、間が空きすぎて駆け足で通り過ぎるなど観光客、特に撮影者には迷惑な事態が続く。続く室町時代は足利義満、細川勝元、山名宗全といった有名人ではなく、足利将軍、細川氏、山名氏と没個性となり、管領も斯波氏、畠山氏は出てこない。吉野時代は定番の大楠公で、中世婦人列は大原女、桂女、淀君、静御前と時代の幅は広がる。
時代祭の時代は遡り、藤原時代の文官、武官の公卿参朝列、常盤御前、巴御前と続く。ここで電池切れとなり、平安時代婦人列の撮影ができなくなった。続く延暦時代の武官列は坂上田村麻呂の凱旋風景で、明らかに今までの武装、武器とは異なる。時代祭も終盤で、祭事に携わる列となり、神前にお供えする神饌、子供の雅楽の舞人、楽人、鳳輦、白川女献花列、弓箭組列と続く。
京都御苑〜上賀茂神社
時代祭行列終了後、有料観覧席沿いに北上し建礼門前で右折、築地塀沿いに東進する。時代祭終了から急速に天候が良くなってきた。東側築地塀沿いに北上して建春門を過ぎ、今出川口の臨時バス駐車場に至る。
上賀茂神社は朝の天気が嘘のようにきれいに晴れ上がり、一の鳥居から芝生広場をまっすぐに通じる参道を二の鳥居まで北上する。二の鳥居前には馬場殿、境内案内図があり、通り抜けると工事中の拝殿があり、左に立砂が飾られた細殿がある。立砂は盛砂とも云い、「たつ」とは神様のご出現に由来した言葉であり、神代の昔に御祭神・賀茂別雷神が最初に降臨された、本殿の北北西二km奥にある円錐形の美しい形の神山に因んだもので、一種の神籬(神様が降りられる憑代)である。更に進むと鮮やかな朱色の楼門があり、通り抜けると中門で奥に本殿・権殿がある。楼門前には様々な石で作られたいのしし像があり、橋殿の片岡橋と、修理中の玉橋がある。葵祭の上賀茂神社であるが、境内の敷地としては広大と思われるが、建物の規模としては存外に狭い。
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