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駒場公園 旧前田侯爵邸(和館) 薬医門
駒場公園(洋館・和館)
歴史 目黒区立公園の中で、二番目の面積を持つ駒場公園は加賀百万石(今の石川県)の当主だった旧前田家の前田利為侯爵駒場邸跡です。
前田侯爵がこの地に邸宅をかまえたのは昭和の初めの事。
明治十一年設立以来、近代農業に輝かしい業績を残した駒場農学校(後の東京帝国大学農学部)が本郷に移転した跡地を第一高等学校(現在の東京大学教養学部)、東京農業教育専門学校(後の東京教育大学農学部・現在の筑波大学)と共に分割使用した物です。
建物は、昭和初期の和洋両建築の粋を集めた物で、化粧レンガやタイル張りの施された洋館は昭和四年、書院造りの和館は昭和五年に完成し、自然の巨木をいかし、名石をあしらった幽邃な奥庭や、芝生の広場が設けられました。和館は、侯爵がロンドン駐在武官であったことから外人客接待用に建てたとも言われています。
華々しい社交の場となったこの優美な豪邸も、第二次大戦中の前田侯爵の不虜の死の後私人の手に渡り、終戦と共に占領軍に接収されました。
昭和三十二年十月に接収が解除され、再度民間の所有となっていた大部分の敷地は、国が買い取るまでの十二平間は連合軍司令官の官邸などとして使われました。
現在の公園は、昭和四十二年に東京都が公園として開園したもので、昭和五十年四月から目黒区に移管されました。
なお、和館は現在一階部分が一般に開放されていて、玄関から二の間、一の間(表座敷)と続く広間や重厚な床の間、違い棚、付書院、欄間の透かし彫りなどを備えた美しい造りを昔のままに見る事ができます。
また、水屋、寄付、待合所を備えた茶室・和室も有料施設として利用いただけます。縁側からは、マツやモミジなどの樹木、流れのある池、芝や石の配置が見事に調和した庭園が望め、落ち着いた雰囲気を味わう事が出来るでしょう。
また、旧前田家本邸洋館も、水曜日から日曜日に一般公開され、さらに和館北側には校倉風の日本近代文学館が設置されており、近代文学に関する資料が閲覧できます。 |
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駒場公園 旧前田侯爵邸(和館) 1階 玄関から続き間へ
和館は1階は一般公開されているが、2階は非公開である。しかし、今回のイベントを企画したKSNの有志の手配により2回も特別公開となった。
1階の見物を終えた後、ボランティアのガイドに従い手前階段から2階に上がる。 |
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駒場公園 旧前田侯爵邸(和館) 1階 続き間(御次之間)から見た池泉回遊庭園 |
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駒場公園 旧前田侯爵邸(和館) 1階 続き間(御次之間)から見た池泉回遊庭園 |
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駒場公園 旧前田侯爵邸(和館) 1階 続き間(御客間)
大広間は付書院、床、違い棚を備えた書院造で、主室「御客間」と次の間「御次之間」と合わせて40畳近くある続きの間である。 |
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駒場公園 旧前田侯爵邸(和館) 1階 続き間(御客間)
床の間には駒場公園の沿革として年表と、駒場公園の歴史が記されている。
概略はガイドから説明があったが、本郷の加賀藩上屋敷は明治維新で約一割に削られ東京大学になった。関東大震災後に駒場の農学部敷地と等価交換し、昭和5年に前田侯爵邸の和館が、4年に洋館が建てられた。昭和17年の前田侯爵の戦死により19年に中島飛行機に一部譲渡されたが、戦後連合軍に接収された。昭和32年に接収解除後、国と東京都が買収、駒場公園として整備、昭和50年に目黒区に移管された。 |
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駒場公園 旧前田侯爵邸(和館) 1階 続き間(御客間)
連合軍接収時に洋館は事務所、和館は住居として利用されたが、防寒対策として床の間に暖炉が設けられ、庭側壁に煙突が造られた。接収解除後に床の間に改修されたが、天井を覗くとその跡が残る。
それにしても、文化の違いとか占領軍の奢りで貴重な財産である床の間を暖炉にするとは、と思う。 |
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駒場公園 旧前田侯爵邸(和館) 1階 続き間(御次之間)から見た池泉回遊庭園 |
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駒場公園 旧前田侯爵邸(和館) 中2階の便所、浴室
幹事の手配により特別に2階が公開されたが、下に係員が立ち他の人が立ち入らないようにしていた。
中2階に日本建築では珍しい便所や浴室が設けられている。ガイドの説明によれば、駐英武官として家族揃っての生活が長かった前田侯爵が欧米の来客用に設けたものである。 |
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駒場公園 旧前田侯爵邸(和館) 2階 御居間 |
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駒場公園 旧前田侯爵邸(和館) 2階 御居間から見た池泉回遊庭園 |
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駒場公園 旧前田侯爵邸(和館) 2階 茶室 |
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駒場公園 旧前田侯爵邸(和館) 2階 日本画家 橋本雅邦の杉戸絵 |
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駒場公園 旧前田侯爵邸(和館) 2階 日本画家 橋本雅邦の杉戸絵 |
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駒場公園 旧前田侯爵邸(和館) 玄関前から見た池泉回遊庭園 |
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駒場公園 旧前田侯爵邸(和館) 玄関前 熱中症計はほぼ安全
現在時刻は11:00で、温度7.8℃、湿度は低すぎて計測不可、熱中症計はほぼ安全である。
昨日までの最低温度が6、7℃であったのと比べると雲泥の差である。快晴なので日差しはあるが、北風が強く寒い。和館は暖房設備がなく、庭園鑑賞のため窓も空いているので畳が冷たく感じられた。 |
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駒場公園 旧前田侯爵邸(和館) 薬医門前 和館案内
旧前田家本邸(和館)
昭和5(1930)年に竣工した木造二階建の近代和風建築で、隣接する昭和4年竣工の洋館とは渡廊下でつながっています。和館の設計には、塚本靖(工学博士)と佐々木岩次郎(帝室技芸員)とその息子佐々木孝之助(建築士)が携わっています。併設する茶室および茶室待合は、三代目木村清兵衛の設計です。
旧加賀藩主の系譜をひく第16代当主前田利為侯爵とその家族は、洋館を日常の生活の場としていて、和館は主に迎賓施設として使用していました。
一階の主室「御客間」は床、付書院、違い棚を備える書院造です。隣の「御次之間」とは続き閥となっていて、合わせると四十畳ほどの大広間となり、南面には池泉庭園が望めます。大広間では、欄間の精緻な透かし彫りや、襖の引手など金物の一部に、前田家の家紋「梅鉢紋」の意匠を見ることができます。
旧前田家本邸は、第二次世界大戦中に前旧利為侯爵が戦死すると、前田家の手から離れました。戦後しばらくは接収され、リッジウェイ連合国最高司令官の官邸などに使用されました。現在は区立駒場公園となり、洋館・和館ともにー般公開されています。 |
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駒場公園 遊歩道を東進 旧前田侯爵邸(和館) 薬医門
薬医門は門柱(本柱)の後ろに控柱が2本設けられた門の総称です。社寺だけではなく城郭や邸宅にも多く使われた門です。
名前の由来には、医院において、門扉の隣に出入りが簡単な戸を設け、患者の出入りを楽にした医院の門という説もありますが、その他にも諸説あげられています。 |
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駒場公園 旧前田侯爵邸(洋館)の北側沿いに西進 |
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駒場公園 遊歩道を西進 旧前田侯爵邸(和館)
和館の2階の屋根に設けられた宝珠が木立の中に見える。 |
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駒場公園 栄華の跡
英国邸宅風の洋館は、昭和4年に旧前田侯爵が新築。欧州で長く駐在武官を勤めた前田侯はここで外国の賓客をよく接待したが、17年に戦没。
案内標の上下に白く消している所があり、気になって以前撮影した写真を調べた。上は平成21年の撮影で「旧前田侯爵邸洋館」だが、下は調べたが不明である。
前田利為侯爵は陸軍中将で昭和14年に予備役、17年に召集され9月にボルネオ沖で搭乗機墜落で戦死、大将に昇任。死亡当初は陣没(事故死)とされたが、当時の税法では戦死ならば相続税は免除となるので前田家の莫大な財産を狙って陣没としたのでは、と帝国議会で問題になり、後に戦死となった。この背景には陸士では同期だが陸大入学で4年遅れた、前田侯爵と不仲で有名だった当時の東条英機首相の意向と言われている。 |
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駒場公園 重要文化財(建造物)旧前田家本邸
旧加賀藩主の系譜をひく第一六代当主前田利為の本邸であった建物です。以前は、前田家本邸は本郷区(現在の文京区本郷)にありましたが、関東大震災後の復興計画で駒場に移転しました。当主の前田利為は外国生活も長く、国際的見識の高い文化人でした。そのため断邸建築に当たっては、外国要人の私設迎賓館にふさわしい建物を希望し、設計を東京帝国大学の塚本靖教授に依頼しました。実際の設計は技師の高橋禎太郎が担当しています。
洋館の規棋は、地上三階、地下一階で、建築面積は一一二九・四uです。昭和四年(一九二九)に竣工しました。鉄筋コンクリート逵で、外壁はスクラッチタイル貼り、アクセントに石材を用い、屋根は銅板葺です。この建物は、大正末から昭和初期に建てられた大邸宅建築を代表する一つで、機能性を重視し、当時の最新の技術を駆使した、上流杜会の生活を偲ぶことができる貴重な文化財です。
和館は、洋館に附属する迎賓館として昭和五年(一九三〇)に竣エしました。設計は帝室技芸員の佐々木岩次郎です。木造二階建の近代和風建築で、洋館と別に、独立した門構えを持ちます。和館一階は「御客間」と「御次之間」を合わせ四十畳近くなる続き間を中心に、周囲を畳廊下と縁側でぐるりと囲む、特徴的な平面です。「御客間」は伝統的な書院造で、床・違い棚・付書院を備えた格式高いものです。二階は宝形屋根を載せた楼閣風の外観で二階「御居間」の床構えは、数奇屋風を加味したものとなっています。茶室及び待合は、三代目木村清兵衛の設計です。 |
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駒場公園 旧前田侯爵邸(洋館) 芝生広場 |