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岡山城(廊下門〜月見櫓〜表書院)

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岡山城(烏城) 記念碑 岡山城(烏城) 記念碑 

文字の摩滅が激しく、読むことはできないが、昭和13年建立と、雰囲気とから日支事変のことが書かれているらしい。
岡山城(烏城) 廊下門前 公園 岡山城(烏城) 廊下門前 公園 
岡山城(烏城) 岡山城の歴史を今に 岡山城(烏城) 岡山城の歴史を今に 

 岡山の市街地の元となった岡山城は、宇喜多秀家が慶長2年(1597)に築城した後、江戸時代には岡山藩の城府となり、明治維新により廃城となりました。城跡は、大半が市街地となり、本丸も学校用地に転用されて、昭和20年の岡山空襲で天守と石山門が焼失し、月見櫓と西手櫓が現存するだけとなりました。
 この本丸跡は、昭和29年に学校が移転して、烏城公園として整備され、昭和41年には天守閣が復元されて観光施設ともなっています。
 さらに、昭和62年に史跡に指定されてからは、歴史に視点を置いた整備が求められるようになりました。岡山市は平成4年度から本丸跡中の段で、発掘調査、コンクリート建物の撤去、石垣の解体復元修理、江戸時代の建物の表示、築城用の石垣の露出展示などを行っておます。
 こうした事業は、中の段の次は天守のある本段、その後は下の段と進めて行く予定です。
 岡山市の歴史的シンボルであって市民共有の文化遺産である岡山城跡を、よりよい姿で後世に伝えていくため、事業へのご理解をお願い申しあげます。
岡山城(烏城) 岡山城(鳥城)の歴史 岡山城(烏城) 岡山城(鳥城)の歴史 

 備前国邑久郡から起こった宇喜多直家が、岡山の地・石山にあった岡山城の前身にあたる城砦に入城したのは、天正元年(1573)の秋てあった。石山の城はこの地の豪族であった金光氏の小城に過ぎなかったが、直家は、この城を大改築して居城とし、城下町の経営に着手し岡山繁栄の基礎をつくった。
 その子八郎秀家は、天正18年(1590)秀吉の意見に従い、石山の東「岡山」に本丸を移し城郭の拡張整備を閣始し、慶長2年(1597)天守閣が落成するにおよんで城普請は完成した。これが豪壮きわまりない石垣と内堀を今に残す岡山城本丸である。
 秀家の築いた天守閣は、二階建ての建物を大中小の三つに重ねた3層6階の構造で、外壁の下見板が黒塗りであったことから「烏城(うじょう)」の別名がある。この天守閣は、昭和6年に国宝に指定されたが、第2次世界大戦による昭和20年(1945)6月
29日の、市街地空襲により焼失した。
 現在の天守閣は、昭和41年(1966)11月に鉄筋コンクリート造りて、再建されたもので、外観は全く旧来の通り復元されている。
岡山城(烏城) 岡山城(鳥城)の歴史 岡山城(烏城) 岡山城(鳥城)の歴史 
岡山城(烏城) 開祖宇喜多氏顕彰之碑 岡山城(烏城) 開祖宇喜多氏顕彰之碑 

左上に旗紋の兒文字、右上に家紋の剣片喰(剣酢漿草)などゆかりの紋が飾られている。
岡山城(烏城) 小納戸櫓下の石垣 岡山城(烏城) 小納戸櫓下の石垣 

 池田忠雄が1620年代に築いた石垣で、搦め手の廊下門脇を守る小納戸櫓が上に建っていた。一番の石垣の石材は犬島(岡山市犬島)から運ばれたとみられる割石で、「丸に十の字」や「L」形などの刻印を持つものがある。
岡山城(烏城) 廊下門 岡山城(烏城) 廊下門 

 表書院(中段)から本段(上段)に渡した廊下の下手に設けられた門で「廊下門」と呼ぶ。昭和41年に鉄筋コンクリートで再建された。
岡山城(烏城) 廊下門 岡山城(烏城) 廊下門 
岡山城(烏城) 廊下門から表書院へ 岡山城(烏城) 廊下門から表書院へ 
岡山城(烏城) 表書院 岡山城(烏城) 表書院 

 岡山藩の政治が行われた建物で、数棟からなり、大小60を越える部屋がありました。登城してきた家臣らは南東の玄関から入り、広い廊下を通って奥へ進み、それそれ所定の部屋に詰めていました。廊下に面した徒番所は城内の警備や雑用にあたる家臣の詰所でした。
 藩主は、住居である本段の御殿から渡り廊下を通って北西の招雲閣に入り、南座敷で政務を執っていました、泉水を備えた中庭には、数寄屋(茶室)が建っていました。北東部には台所があり、藩主の食事や儀式用の料理を作っていました。
 発掘調査で出土した建物の礎石や雨落ち溝などの遺構は地下に保存し、地表には建物の位置や間取り、泉水などを表示しています。
岡山城(烏城) 国指定重要文化財 岡山城月見櫓 岡山城(烏城) 国指定重要文化財 岡山城月見櫓 
岡山城(烏城) 国指定重要文化財 岡山城月見櫓 岡山城(烏城) 国指定重要文化財 岡山城月見櫓 

 月見櫓は、岡山城本丸を構成する一二三の段の二段目に当たる中の段の北西角を固める隅櫓で、池田忠雄が岡山城主であったときの城郭整備に伴い、元和年間から寛永年間前半の時期(一六二〇年代)の建築判断されています。構造は、一部地下付きの塗籠造り本瓦葺き二階建てで、城外(北西)側から眺めると二層の望楼型の様相を示し、城内(南東)側から眺めると三層の層塔型の景観を呈しています。規模は地階と一階が桁行(東西)三十二尺三寸(九.七九メートル)・梁間(南北)二十六尺二寸(七.九四メートル)・二階が方形で桁行・梁間とも十六尺五寸九分(五・〇三メートル)、棟高四十五尺四寸(一三.六七メートル)です。
 地階は、一階床下の貯蔵場所であり、一階の床板が引き上げ式の戸造りとなっていて、有事の際に一階へ通じる作りとなっています。一階は、西面に石落し(俯射装置)付きの唐破風造りの出格子窓、北面に石落し付きの片流屋敷の出格子窓を設けて城外側への臨戦の構えをなし、南面西寄りには入口を設けています。二階は、西面の初層屋根の妻部に千鳥破風の格子窓、西壁に引き違い窓、北面の踊場北窓に唐破風造の武者窓、北壁に引き違い窓を設けて、一階同様に城外側への備えを厳しくしています。
 その一方で、二階の城内側の東面と南面には雨戸を立ての手摺付きの縁がめぐり、内側に腰高明り障子を立てており、二階のたたずまいは、城内側が日常生活仕様となっていて、平時にも月見を始めとした四季の眺望と小宴を催すのに格好の構造となっています。
岡山城(烏城) 表書院 岡山城(烏城) 表書院 

表書院の構造が分かるように表示がなされている。
岡山城(烏城) 天守閣 岡山城(烏城) 天守閣 
岡山城(烏城) 多聞櫓 岡山城(烏城) 多聞櫓 

 石塁の上に建てられた長屋を多聞櫓をといいます。大納戸櫓と伊部櫓の間には長さ37m、幅4mの平屋の多聞櫓が建っていました。壁には下見板が張られ、格子窓や石落しが設けられていました。
岡山城(烏城) 大納戸櫓 岡山城(烏城) 大納戸櫓 

 本丸の大手を守る要となる三重四階建での城内最大の櫓でした。一階の平面は長辺20m、短辺10mで、壁には黒い下見板が張られており、藩政のための書類や道具類か保管されていました。
岡山城(烏城) 大納戸櫓からの風景 岡山城(烏城) 大納戸櫓からの風景 

大納戸櫓は岡山城の南西角にある。
岡山城(烏城) 大納戸櫓跡 岡山城(烏城) 大納戸櫓跡 

 本丸内で一番大きな3階建ての櫓があった。小早川秀秋が沼城(岡山市東区沼)の中心櫓をここに移築したもので、明治の廃城後取り壊された。
岡山城(烏城) 表書院 岡山城(烏城) 表書院 

表書院の構造が分かるように表示がなされている。
岡山城(烏城) 表書院 岡山城(烏城) 表書院 

 岡山藩の政治が行われた建物で、数棟からなり、大小60を越える部屋がありました。登城してきた家臣らは南東の玄関から入り、広い廊下を通って奥へ進み、それそれ所定の部屋に詰めていました。廊下に面した徒番所は城内の警備や雑用にあたる家臣の詰所でした。
 藩主は、住居である本段の御殿から渡り廊下を通って北西の招雲閣に入り、南座敷で政務を執っていました、泉水を備えた中庭には、数寄屋(茶室)が建っていました。北東部には台所があり、藩主の食事や儀式用の料理を作っていました。
 発掘調査で出土した建物の礎石や雨落ち溝などの遺構は地下に保存し、地表には建物の位置や間取り、泉水などを表示しています。



 
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