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日医大つつじ通り 根津裏門坂を上る 建て替え工事中の日本医大附属病院 |
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日医大つつじ通り 根津裏門坂を上る 日本医大前交差点で右折 |
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日医大つつじ通り 日本医大前交差点 建て替え工事中の日本医大附属病院 |
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日本医大キャンパス横の道を北上 |
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日本医大 同窓会館 橘桜会館
橘桜会館入口角に夏目漱石旧居跡の石碑が立つ。 |
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日本医大 同窓会館 橘桜会館前 夏目漱石旧居跡
石碑は川端康成の書である。
夏目漱石は明治卅六年一月英国から帰り、三月三日ここ千駄木町五十七番地に居を構えた。
前半二箇年は一高と東大の授業に没頭したが、卅八年一月「吾輩は猫である」「倫敦塔」等を發表して忽ち天下の注目を浴び、更に「猫」の續稿と竝行、卅九年初から「坊っちゃん」「草枕」「野分」等を矢継早に出して作家漱石の名を不動にした。歳末廿七日西片町に移り、翌四十年四月朝日新聞に入社し、以後創作に専念した。千駄木町は漱石文學發祥の地である。
森鴎外も前に(自 明治廿三年十月 至 同廿五年一月)その家に住んでゐた。家は近年保存のため移築され、現在 犬山市明治村にある。 |
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日本医大 同窓会館 橘桜会館前 夏目漱石旧居跡
夏目漱石 本名・金之助。慶応3年〜大正5年(1867〜1916)。小説家。この地に、漱石がイギリス留学から帰国後の、明治36年3月から39年12月、現在の西片1丁目に移るまで、3年10か月住んだ家があった。(家主は東大同期の斉藤阿具氏)
当時、東京帝大英文科、第一高等学校講師として教職にあった漱石は、この地で初めて創作の筆をとった。その作品『吾輩は猫である』の舞台として、“猫の家,,と呼ばれ親しまれた。 この地で、『倫敦塔』『坊っちゃん』『草枕』などの名作を次々に発表し、一躍文壇に名をあらわし た。漱石文学発祥の地である。
漱石が住む13年程前の明治23年10月から1年余り森鴎外が住み、文学活動に励んだ。鴎外は、ここから団子坂上の観潮楼へ移っていった。 |
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住宅街を北上 |
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駒込学園前交差点で右折、大観音通りへ
交差点の向いの右が駒込学園で、左に駒込大観音(光源寺)がある。 |
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大観音通り 駒込学園前交差点 駒込大観音(光源寺) |
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大観音通り 駒込学園前交差点 旧町名 旧駒込蓬莱町
旧駒込蓬莱町(昭和40年までの町名)
元文年間(1736〜41)町屋が開かれた。町内向側に、寺院4か寺、(瑞泰寺・栄松寺・清林寺・光源寺)があったので、四軒寺町と唱えた。本郷通りの長元寺・浄心寺の向側を江戸時代、ウナギナワテ(まっすぐ細長い道)といわれた。
明治5年、浅嘉町の一部と、高林寺門前、浩妙寺、浄心寺などの寺地を併せ、町名を蓬莱町とした。
町名は中国の伝説にある東方の海中にあって、仙人が住むという蓬莱山の名にあやかり、将来の繁栄を願ってつけられた。 明治13年、駒込片町、下駒込村の各一部を合併した。
町内には寺院が多く、戦災で焼失したが大観音で有名な光源寺、将軍に献上した“お茶の水”で有名な高林寺(振袖火事でお茶の水からここに移る)がある。 |
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大観音通り 駒込大観音(光源寺) 「蓬莱梅」の由来
「蓬莱梅」の由来
[野梅性(やばいしょう)白梅、樹齢約300年]
かって、この大観音堂の傍らに梅の古木があったが、昭和20年5月25日の空襲で、観音堂と共に焼失した。
この度、大観音再建にあたり、代替りの梅の木を各地こ探し求めたが、榛名山の麓でこの梅を見付け出し、昔を偲ぶ思いをこめて、ここに移植した。
蓬莱梅の名称は住居表示改正前、ここの町名であった駒込蓬莱町に因んで名付けたが、明治末頃迄、駒込辺りは梅や桜の花木の産地として有名であった。 |
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大観音通り 駒込大観音(光源寺) |
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大観音通り 駒込大観音(光源寺)
高さ約6mの駒込大観音がある。7月9・.1O日の「四万六千日」の緑日のほおづき市で知られる。
駒込大観音再建の時、観音の顔が睨むようなまなざしで怖いとの評判がたち、仏師が死去の後、弟子によって顔だけ作り直された。このことが著作権と名誉毀損問題となり、最高裁で問題なしとなった。今は撤去されているが、勝訴時にはその経緯を書いた紙が貼られていた。 |
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大観音通り 駒込大観音(光源寺) 蓬莱梅
本堂右側にある。 |
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大観音通り 駒込大観音(光源寺) 「蓬莱梅」の由来
内容は門前の案内と同じである。 |
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大観音通りを東進 |
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大観音通り 「青鞜社」発祥の地
「青鞜社」発祥の地
青鞜社は、平塚らいてう(雷鳥・1886〜1971)の首唱で、木内錠子・物集和子・保持研子・中野初子ら二十代の女性5人か発起人となり、1911年(明治44)6月1日に結成された。事務所はここ旧駒込林町9番地の物集和子宅におかれ、その裏門に「青鞜社」と墨で書かれた白木の表札が掲げられた。
月刊「青鞜」の創刊号は明治44年9月に発刊された。雷鳥の発刊の辞「元始、女性は実に太陽であった」は有名で、女性たちの指針となった。表紙絵は後に高村光太郎と結婚した長沼ちゑの作である。
青鞜社は初め詩歌が中心の女流文学集であったが、後に伊藤野枝が中心になると、婦人解放運動に発展していった。事務所はその後4ヶ所移り、「青鞜」は1916年(大正5)2月号で廃刊となった。 |
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大観音通り 団子坂上交差点手前 森鴎外記念館
団子坂上交差点の少し手前に森鴎外記念館がある。鴎外が向丘の後に漱石が住んだ家から移り、明治25年から死ぬまで住んだ住居跡である。汐見坂上にあったので、観潮楼と名づけた。ここで雁、高瀬舟などが書かれた。以前は森鴎外観潮楼(鴎外記念本郷図書館)と言い、木造2階建てだった。その後改築工事が長く続き、外観も一変した。 |
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大観音通り 団子坂上交差点手前 森鴎外記念館
「おう」外の正しい字はパソコンでは表示できないため、「鴎」を使っている。
森鴎外生誕150年を記念して、旧居「観潮楼」の跡地に建てられた記念館。鴎外は明治25年から大正11年に亡くなるまでここで過ごした。小説家、戯曲家、評論家、翻訳家、陸軍軍医と、いくつもの顔をもつ鴎外の作品や遺品などが展示されている。
10〜18時(入館は17時30分まで)、第4火曜、年末年始(12月29日〜1月3日)休。入館料一般300円(展示により料金が異なる)、中学生以下無料。2階の図書室と1階喫茶室は入場無料。 |
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大観音通り 団子坂上交差点手前 森鴎外記念館
文京区立森鴎外記念館は、明治、大正期に活躍した森鴎外(本名森林太郎)が暮らした家の跡に建てられています。 鴎外は、1892(明治25)年1月から、この地で家族とともに暮らしました。家は団子坂の上に位置し、2階から品川沖の白帆がのぞめ、鴎外により観潮楼と名づけられました。 敷地内には、往時を偲ばせるものが今も残っています。薮下通りには正門の門柱の礎石や敷石、庭には鴎外ゆかりの「三人冗語」の石や、大銀杏があります。また「沙羅の木」詩碑、「観潮楼址」碑も設置されています。 鴎外は軍医として勤めるかたわら、「青年」「雁」「高瀬舟」などたくさんの小説や翻訳を執筆しました。また、この家には鴎外を訪ねて、永井荷風、芥川龍之介、伊藤左千夫、石川啄木、斎藤茂吉など多くの文人が訪れました。観潮楼は、森家の住まいのみならず、文人たちの社交場でもありました。 文京区は、多<の文化人が住んだ文の京でもあります。鴎外がたくさんの人と交流し、みずからも散策に出かけたこの地から、当時の面影をさがしに街へお出かけください。 |
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大観音通り 団子坂上交差点手前 森鴎外記念館
重厚なドアで入りにくい雰囲気だが、入ると広いエントランスがある。
エントランスの正面に鴎外の浮彫像があり、左にカフェ、右にショップと展示室の入場券販売所がある。
2階は図書室で、地下1階が有料の展示室である。2年前に訪れた時(平成25年2月)は展示室2が次女と鴎外とのやり取りが、展示室1は文人との書簡展示であり、さして広くはない。展示室は撮影禁止で、係員が常駐している。 |
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大観音通り 団子坂上交差点 |
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大観音通り 団子坂を下る |
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大観音通り 団子坂を下る
団子坂は、潮見坂、千駄木坂、七面坂の別名がある。 「千駄木坂は千駄木御林跡の側、千駄木町にあり、里俗団子坂と唱ふ云々」 (御府内備考) 「団子坂」の由来は、坂近く団子屋があったともいい、悪路のため転ぶと団子のようになるからともいわれている。また、「御府内備考」に七面堂が坂下にあるとの記事があり、ここから「七面坂」の名が生まれた。「潮見坂」は坂上から東京湾の入江が望見できたためと伝えられている。
幕末から明治末にかけて菊人形の小屋が並び、明治40年頃が最盛期であった。また、この坂上には森鴎外、夏目漱石、高村光太郎が居住していた。 |
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大観音通り 団子坂下交差点で不忍通りを渡り、団子坂通りへ |