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上野寛永寺(根本中堂) 区道の門から入る |
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上野寛永寺(根本中堂) 根本中堂、書院
右手に根本中堂があり、正面奥に書院が見える。 |
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上野寛永寺(根本中堂) 書院
根本中堂の裏手で、言問通りの上野桜木二丁目交差点で左折した所にある用門から入るとすぐ左にある。最後の将軍徳川慶喜が水戸退去前の2ヶ月ほど蟄居していた。 |
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上野寛永寺(根本中堂) 寛永寺事務所 |
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上野寛永寺(根本中堂) 寛永寺事務所
寛永寺事務所入口に幾つかの案内が掲示されている。
お知らせ
「葵の間」
「徳川将軍霊廟」は、
特定日のみ公開して
います。ご参拝・ご拝
観を希望される方は、
寛永寺ホームページ
「特別参拝のご案内」
をご覧ください。 |
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上野寛永寺(根本中堂) 寛永寺事務所
【歴代将軍御霊廟(天璋院墓所)案内図】
・御霊廟内は非公開てす。お参りは勅額鬥前までにておお願い致します。
・一般霊園内につき、静かにお参り下さい。
また、園内他所の立ち入りは固く禁止させていただきます。 |
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上野寛永寺(根本中堂) 本堂(根本中堂) |
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上野寛永寺(根本中堂) 本堂(根本中堂) |
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上野寛永寺(根本中堂) 本堂(根本中堂)
旧本堂(根本中堂)は現在の東京国立博物館前の噴水池あたりにあったが、慶応四年(一八六八)彰義隊の兵火で焼失した。そのため明治九年(一八七六)から十二年にかけて、埼玉県川越市の喜多院の本地堂が移築され、寛永寺の本堂となったのである。寛永十五年(一六三八)の建造といわれる。 間口・奥行ともに七間(十七.四メートル)。前面に三間の向拝と五段の木階、背面には一間の向拝がある。周囲には勾欄付廻縁をめぐらしており、背面の廻縁には木階を設けて、基壇面に降りるようになっている。桟唐戸(正面中央など)、蔀戸(正面左右など)、板壁など、すべて素木のままである。屋根は入母屋造、本瓦葺、二重とし、細部の様式は和様を主とする。 内部は、内陣が土間で、外陣と同じ高さの須弥壇が設けられている。須弥壇の上に本尊その他の仏像を安置する。内陣を土間とする構造は中堂造と呼ばれ、天台宗独特のものである。現在は仮の床が張られ、内外陣ともにすべて畳敷になっている。 |
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上野寛永寺(根本中堂) 上野寛永寺(根本中堂) 銅鐘(台東区有形文化財
本鐘の大きさは、総高一七七.ニセンチ、口径九一.八センチ。 厳有院殿(四代将軍家綱)の一周忌にあたる、延宝九年(一六八一)五月八日に厳有院殿廟前の鐘楼に奉献された。明治維新以降に、寛永寺根本中堂の鐘として、当所に移されたと伝えられる。現在は、除夜の鐘や重要な法要の際に使用されている。 作者の椎名伊予守吉寛は、江戸時代前期(十七世紀後半)に活躍した江戸の鋳物師で、神田鍋町に住した。延宝元年(一六七三)から貞亨三年(一六八六)にかけて、銅鐘を中心に十七例の作例が知られている。その中には増上寺や寛永寺などに関わるものも含まれており、幕府との関係の深さが窺える。 本鐘は、将軍家霊廟の儀式鐘で、近世初期の鋳物師の活動や鋳造技術を知る上でも貴重な遺品のひとつである。 平成十八年に台東区有形文化財として台東区区民文化財台帳に登職された。 |
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上野寛永寺(根本中堂) 門を出て左折、区道を南下
本堂(根本中堂)の右側には鐘楼を始め、さまざまな遺構や碑がある。 |
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上野寛永寺(根本中堂) 門を出て左折、区道を南下 |
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上野中学校沿いに区道を南下 |
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突き当りで左折 |
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上野中学校沿いに区道を北上
右側には東京文化財研究所がある。 |
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上野中学校沿いに区道を北上 東京文化財研究所 |
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突き当りで左折、寛永寺第三霊園に入る
突き当りの自動車用門には金色の葵の紋があり、右奥に徳川綱吉霊廟の勅額門が見える。 |
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上野寛永寺(第三霊園) 重文 徳川綱吉霊廟 勅額門
五代将軍綱吉は、延宝八年(1680)五月に兄・家綱の死に伴って将軍の座につき、宝永六年(1709)一月十日に六十三歳で没した。法名を常憲院という。 綱吉ははじめ、善政を行い「天和の治」と賛えられたが、今日では「生類憐みの令」などを施行した将軍として著名。 元禄十一年(1698)九月、この綱吉によって竹の台に寛永寺の根本中堂が建立された。造営の奉行は柳沢吉保、資材の調達は紀之国屋文左衛門と奈良屋茂左衛門である。また、それに伴って先聖殿(現・湯島聖堂)が上野から湯島に移されている。 綱吉の霊廟は宝永六年の十一月に竣工したが、それは歴代将軍の霊廟を通じてみてももっとも整ったものの一つであった。ただ、その一部は維新後に解体されたり、第二次世界大戦で焼失した。この勅額門と水盤舎(ともに重要文化財)は、その霊廟と共にこれら災を免れた貴重な遺構である。勅額門の形式は四脚門、切妻造、前後軒唐破風付、銅瓦葺。 |
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上野寛永寺(第三霊園) 重文 徳川綱吉霊廟 勅額門 |
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上野寛永寺(第三霊園) 天璋院篤姫墓所(非公開)
以前は重文 徳川綱吉霊廟 勅額門の案内板しかなかったが、平成20年の大河ドラマの天璋院篤姫ブームにより、その説明板も脇に設けられた。
天璋院篤姫は天保六年(一八三五)十二月十九日、薩摩藩今和泉島津家島津忠剛(ただだけ)の長女として今和泉島津家本邸(現在の鹿児島県指宿市)にて生を受けました。(幼名一子(かつこ)・於一(おかつ)) 嘉永六年(一八五三)、島津本家二十八代当主島津斉彬(なりあきら)の養女となり、名を篤姫と改めて鶴丸(鹿児島)城に入り、また同年中に鹿児島を出立し京都の近衛家に参殿ののちに江戸城下、芝の藩邸に入っています。 その後、安政三年(一八五六)に近衛家の養女となり、名を敬子(すみこ)と改め、同年に徳川十三代将軍家定(いえさだ)公の正室として輿入れしました。 この輿入れの際に、篤姫は斉彬より十四代将軍に一橋慶喜を推すようにとの密命をうけていましたが、家定公は心身が虚弱で、入輿からわずか二年後の安政五年(一八五八)に逝去され、十四代将軍には紀州の慶福(よしとみ(のちの家茂公))が就任しています。(落飾し、天璋院と号する。) また同年、養父斉彬が逝去され、篤姫はその密命を果たせぬまま、夫と養父を相次いで亡くしました。 しかし、落胆の中でありながら、篤姫は若き将軍の補佐によく勤め、また大奥をまとめる為にも尽力しました。 公武合体の為、家茂公のもとへ降嫁した和宮(かずのみや)とは当初は対立していましたが、のちに心を通わす仲となり、その後敵対してしまった実家(薩摩)に対し、徳川家の存続を歎願するなど江戸城無血開城にも大きく貢献をしています。 明治になると、わずか六歳で徳川家を継いだ十六代家達(いえさと)公の養育に余生を捧げ、明治十六年十一月に四十八歳で亡くなるまで、徳川家の為にその生涯を捧げました。 なお、墓所は五代綱吉公霊廟内、家定公の墓所の隣にあり、宝塔の脇には好物であったとされる枇杷(びわ)の木が植えられています。 |
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上野寛永寺(第三霊園) 重文 徳川綱吉霊廟 勅額門前 熱中症計はほぼ安全
現在時刻は12:15で、温度14.7℃、湿度は低くて測定不能、熱中症計はほぼ安全である。
歩き始めが11:05で、始めは寒かったが歩くことにより暑くなり谷中銀座の経王寺で着込んだベストを脱いだ。意外に温度が上がっていたのでジャンパーの前を開けて歩くことにした。 |
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上野寛永寺(第三霊園) 霊園の塀沿いに東進
本来は2車線の一方通行の区道であるが、何故か片側はタクシー運転手の休憩所と化し、空いた車線はかなりの速度で車が走っている。いつもはガラガラであるが、危険で第二霊園の徳川家綱の霊廟勅額門に近づけなかった。 |
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上野寛永寺(第二霊園) 第二霊園入口 |
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上野寛永寺(第二霊園) 徳川家綱霊廟 勅額門
四代将軍家綱は、慶安四年(一六五一)四月に父・家光の死に伴って、わずか十才で将軍の座につき、延宝八年(一六八〇)五月八日にに三十九才で没した。法名を厳有院という。 |
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上野寛永寺(第二霊園) 徳川家綱霊廟 勅額門
四代将軍家綱は、慶安四年(1651)四月父・家光の死に伴って、わずか十歳で将軍の座につき、延宝八年(1680)五月八日に三十九歳で没した。法名を厳有院という。 病気がちであった家綱時代の政務は、主として重臣の手に任されていたが、とくに後半の政治を担当した大老・酒井忠清が有名である。時代は家綱の襲職直後に起こった由井正雪の乱の解決を機に、ようやく安定期に入った。 家綱の霊廟の一部は維新後に解体されたり、第二次世界大戦で焼失したが、この勅額門と水盤舎は、その霊所と共に、これらの災いを免れた貴重な遺構である。 勅額門の形式は四脚門、切妻造、前後軒唐破風付、銅瓦葺。 なお、このうち水盤舎は延宝八年に家綱のために造立されたものであるが、この勅額門は昭和三十二年の改修時に発見された墨書銘によって、もと家光の上野霊廟の勅額門であったものを転用したものと考えられる。 |
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上野寛永寺(第一霊園) 第一霊園入口 |
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忍岡中学校手前交差点で右折
少し先の左の白い建物が忍岡中学校で、そこで左折すると鶯谷駅南口となる。 |
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東京国立博物館の柵沿いに南下 |
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東京国立博物館の柵沿いに南下 林光院
林光院は寛永寺の子院である。 |
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突き当りの国立科学博物館前で右折、都道神田白山線へ
突き当りには平成25年に最新の技術により修復されたシロナガスクジラが展示されている。 |
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都道神田白山線 東京国立博物館 正門で左折、上野公園へ |