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今宮神社 楼門
由緒
九九四年創祀
健康長寿・良縁開運のお社
御祭神 大己貴命(大国主命)
事代主命
奇稲田姫命
一条天皇の御世、平安以前より疫神を祀るこの地に疫病を鎮めるお社として創祀され、新たな社との名である「今宮」と号されました。
やすらい祭で知られる鎮疫・健康長寿の社、西陣の氏神として人々の尊敬を集めています。近年は開運良縁のご神徳を求める多くの人で賑わっています。 |
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今宮神社 楼門
今宮神社は大徳寺の西隣で、北大路通の北にあり、南側の向いには建勲神社がある。
今宮神社を解説した神職によれば、大寺院である大徳寺に比べれば知名度で劣るが、明治2年に織田信長を祀るために創建された建勲神社よりはるかに由緒ある神社だ、と言っていた。 |
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今宮神社 参道を北上 |
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今宮神社 拝殿
神職によれば拝殿であるが、大きな舞台があり、世間で言う舞殿のように見える。 |
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今宮神社 本社、疫社
この後、添乗員により神職を紹介され、普段は入れない本社、疫社を参拝し、お祓いを受けた。残念ながら、他の神社同様本社などの撮影は出来なかった。 |
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今宮神社 本社
祭神は大己貴命(大国主命)、事代主命、奇稲田姫命の三柱である。 |
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今宮神社 拝殿 |
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今宮神社 疫社
神職によれば、祭神は素盞嗚命という。その妻である奇稲田姫命は本社の三柱の祭神の一柱である。 |
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今宮神社 織姫社
西陣織物の祖神・技芸上達の神。近頃は織姫彦星の七夕伝説になぞらえた信仰も。
社前には織物の杼をかたどった碑がある。 |
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今宮神社 桂昌院(お玉の方)
桂昌院は、寛永五年(一六二八)、西陣で八百屋の次女に生れ、名を玉といった。その後公家二条家に出人りの本庄宗利の娘となり、関白家の麿司孝子に仕えたが、やがて孝子が将軍家光に入嫁するのに伴われて江戸城に入り大奥で仕えているうち、春日の局に認められて家光の側室となり、後に五代将軍となる綱吉を生んでその生母となり、晩年には従一位に叙せられ、世に畏敬されつつ、至福のうちに、宝永二年(一七〇五)七十九才で没した。
桂昌院は、終生神仏を敬うこと深く、報恩感謝の心厚かったが、とりわけ西陣の産土の神の坐す今宮社が、当時荒れているのを嘆き、元禄七年(一六九四)から、時の奉行に命じて、社殿を造営・神領を寄進。そのため神域は面目を一新したという。また祭礼も、途絶えていた「やすらい祭」を復活させ、「今宮祭」には、御牛車・鉾などを寄進、また御幸道を改修し、氏子地域を拡げるなど、大いに復興に努めたので、祭は往時を凌ぐほどの盛況を収り戻した。更に元禄十二年(一六九九)には、江戸護国寺の地に今宮の神を分祀して今宮神社とし、毎年今宮祭を祭行したと伝えられている。(文京区音羽町に現存)
こうした桂昌院の業績は、没後三百余年を経た今日でも、神社中興の祖として、その遺徳を讃える産子が多い。また、一面、一介の市井人から、身を起こし乍ら、所謂「玉の輿」を昇りつめた類まれな女性として、その生涯を偲慕する人々も少なくない。 |
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今宮神社 桂昌院(お玉の方) |