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護国院(大黒天)〜水月ホテル鴎外荘〜不忍池

【関連サイト】   谷根千(谷中・根岸・千駄木)散策H210913(森鴎外居住の跡〜上野公園〜上野駅)

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谷中霊園入口交差点で右折、団子坂通りへ 谷中霊園入口交差点で右折、団子坂通りへ 

写真は交差点を出てからの図であるが、谷中霊園からだと右折(写真では左)することになる。
 団子坂通り 諏訪台通り(初音のみち)交差点 団子坂通り 諏訪台通り(初音のみち)交差点 

名前はないが、谷中霊園入口交差点の次の交差点である。

交差点角の中華料理店が目安で、右折すると朝倉彫塑館や長安寺(狩野芳崖墓)がある諏訪台通り(初音のみち)を経て、山門に上野戦争時の弾痕がある夕やけだんだん坂上の経王寺に出る。
団子坂通り 台東初音幼稚園前交差点で道を戻る 団子坂通り 台東初音幼稚園前交差点で道を戻る 

このまま団子坂通りを進むと次の護国院から遠ざかるというので、谷中霊園入口交差点に戻ることにした。

帰宅後地図を調べたところ、この交差点で左折して直進すると言問通りの谷中六丁目交差点に着き、さらに進むと護国院に着くことが分かった。しかし、田端駅で配られた七福神巡りの地図や色々なサイトでは一旦言問通りに出るのが普通となっている。
 団子坂通り 諏訪台通り(初音のみち)交差点 団子坂通り 諏訪台通り(初音のみち)交差点 
団子坂通り 谷中霊園入口交差点で右折 団子坂通り 谷中霊園入口交差点で右折 

谷中霊園を出て直進することになる。
団子坂通り 上野桜木交差点で右折、言問通りへ 団子坂通り 上野桜木交差点で右折、言問通りへ 
言問通りを西進 言問通りを西進 

時期的に有り得ないが、夏みかんのような実が成っている。
言問通りを西進 谷中六丁目交差点で左折 言問通りを西進 谷中六丁目交差点で左折 
護国院(大黒天) 護国院(大黒天) 

突き当りに護国院がある。
護国院(大黒天) 護国院(大黒天) 
護国院(大黒天) 護国院(大黒天) 

護国院

 護国院は、天海の弟子生順が、釈迦堂の別当寺として、現在の束京国立博物館の右手裏に開創した。承応二年(一六五三)・延宝八年(一六八〇)に寺地を西方へ移転し、さらに、宝永六年(一匕○九)現在地に移った。延宝八年・宝永六年の移転は、それぞれ四代将軍家綱霊廟・五代将軍綱吉霊廟の
建立にともなうものである。また、昭和二年、第二束京市立中学校(現、都立上野高校)建設にともない、本堂を現在の位置に移した。
 現存する本堂は釈迦堂とも呼ばれ、享保七年(一匕二二)三月の再建。間口七間(十八.二メートル)、奥行五間(十三.六メートル)。唐様の建築で、中央奥の須弥埴に本尊釈迦三尊坐像を安置する。また、大黒天画像は三代将軍徳川家光から贈られたものと伝え、谷中匕福抻のひとつとして信仰をあつめている。
 庫裏の一階部分は、昭和二年の新築。東京美術学校(現、東京藝術大学 美術学部)教授岡田信一郎の設計で、各間取りは機能的に配置されている。昭和初期の住宅建築の風潮を良く伝えており、平成十三年、国登録有形文化財に指定された。
 岡田は、束京美術学校・早稲田大学で設計教育に携わるかたわら、旧鳩山一郎邸(大正十三年竣工)・歌舞伎座(同年竣工)等を手がけ、和風建築の設計に手腕を発揮した人物である。
護国院(大黒天) 楽堂 護国院(大黒天) 楽堂 
護国院(大黒天) 本堂 護国院(大黒天) 本堂 
護国院(大黒天) 本堂 護国院(大黒天) 本堂 
護国院(大黒天)を出て左折 護国院(大黒天)を出て左折 

護国院は丁字路の突き当りにあり、右折すると東京藝術大学に向かい、丁字路の縦棒方向に進むと言問通りに出る。
都立上野高校の校舎沿いに進む 都立上野高校の校舎沿いに進む 
都立上野高校の校舎沿いに進む 都立上野高校の校舎沿いに進む 
都立上野高校の校舎沿いに進む 都立上野高校の校舎沿いに進む 

上野高校は旧制「市立」第二中学で、日比谷や、戸山などの旧制「府立」中学のナンバースクールではない。市立の第一中学校は靖国神社裏にある九段高校である。
 上野動物園沿いに清水坂を下る 上野動物園沿いに清水坂を下る 

清水坂を下り、突き当りで左折、動物園通りへ出る。

坂近くに、弘法大師にちなむ清泉が湧いていたといわれ、坂名はそれに由来したらしい。坂上にあった寛永寺の門を清水門と呼び、この付近を清水谷と称していた。かっては樹木繁茂し昼でも暗く、別名「暗闇坂」ともいう。
 上野動物園沿いに清水坂を下る 上野動物園沿いに清水坂を下る 
動物園通り 上野動物園 緊急用出入口 動物園通り 上野動物園 緊急用出入口 
動物園通り 水月ホテル鴎外荘 動物園通り 水月ホテル鴎外荘 

入ってすぐ右がホテルで、その先のガラスドアの先に森鴎外居住の跡と称する平屋の建物がある。ホテルの係員が建物の入口に居ることが多く、入ろうとすると誰何されてホテルに用があるかどうかを問われる。そのため、森鴎外居住の跡には殆んど行けない。
動物園通り 水月ホテル鴎外荘 動物園通り 水月ホテル鴎外荘 

森鴎外 (1862〜1922)

島根県津和野出身。旧幕時代の範医の長男に生まれる。東京大学医学部卒。陸軍省の軍医となり、日清戦争、日露戦争に従軍。
翻訳、創作、批評に活躍、明治文化人の重鎮。
代表作に「於母影」(翻訳詩集)。「舞姫」・「雁」・
「渋江抽斎」・「高瀬舟」・うたかたの記」。

森鴎外居住の跡

森鴎外は、明治二十三年(一八九〇)この地において文壇処女作の「舞姫」を発表しました。そして次々と文学作品を発表し、近代文学史上画期的な活躍をする基礎を築いた地でもあります。

【註】
森鴎外の説明中に原文では「範医」となっているが、「藩医」のことであり、間違いではない。
動物園通り 水月ホテル鴎外荘 動物園通り 水月ホテル鴎外荘 
動物園通り 水月ホテル鴎外荘 動物園通り 水月ホテル鴎外荘 

 森鴎外は文久二年(一八六二)正月十九日、石見国津和野藩典医森静男の長男として生まれた。本名を林太郎という。
 明治二十二年(一八八九)三月九日、海軍中将赤松則良の長女登志子と結婚し、その夏に根岸からこの地(下谷区上野花園町十一番地)に移り住んだ。この家は、現在でもホテルの中庭に残されている。
 同年八月に『国民之友』夏季附録として、『於母影』を発表。十月二十五日に文学評論『しがらみ草子』を創刊し、良く二十三年一月には処女作『舞姫』を『国民之友』に発表するなど、当地で初期の文学活動を行った。一方、陸軍二等軍医正に就任し、陸軍軍医学校教官としても活躍した。
 しかし、家庭的には恵まれず、長男於莵が生まれた二十三年九月に登志子と離婚し、翌十月、本郷区駒込千駄木町五十七番地に転居していった。
 動物園通り 五條天神社 動物園通り 五條天神社 
動物園通り 不忍池 動物園通り 不忍池 
動物園通り 不忍池 上野動物園 弁天門 動物園通り 不忍池 上野動物園 弁天門 



 
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