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六義園レンガ塀沿いの道 サンクス六義園店角で左折、本郷通りへ出て北上 |
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本郷通り 駒込橋交差点(南北線 駒込駅)
駒込橋はJRの跨線橋で、交差点からかなり離れている。交差点には南北線駒込駅の出入口がある。 |
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本郷通り 駒込橋交差点 通常閉鎖の六義園 染井門
交差点左にある立派な門で、JR駒込駅にも近いが、入場できない。 |
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本郷通り JR 駒込駅(南口広場) |
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本郷通り JR跨線橋 駒込橋 |
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本郷通り JR 駒込駅(北口) |
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本郷通り 妙義坂を下る
駒込駅前北交差点に妙義坂の由来が記された碑があるが、摩滅が激しく、読むのに苦労する。
坂の西方駒込三丁目ある妙義神社が坂名の由来であり、「大日本名所図会」に「妙義神社は駒込妙義坂下にあり、道路の西に、「これよりみょうぎみち、やしろまで半丁」と記せし石標を建つ。(中略)当社の祭神は日本武尊にして、左に高産霊神、右に神功皇后、応仁天皇を奉祀す。社伝に『日本武尊東征の際此地その陣営となりたれば後に一社を建て白鳥社と号す』」と記されている。 |
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本郷通り 妙義坂を下る |
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本郷通り 妙義坂 妙義神社参道入口 |
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妙義神社参道の突き当たりにある妙義神社
本郷通りから階段の先に鳥居が見える。 |
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駒込 妙義神社
当社の祭神は、高御産霊神・日本武尊・神功皇后・応神天皇である。文政十一年(一八二八)に成立した『新編武蔵風土記稿』の記述によれば日本武尊が東征の時にこの地に陣営をしき、のち白雉二年(六五一)五月に社を建てて白鳥社としたという。これによれば、区内最古の神社ということになる。
くだって文明三年(一四七一)五月、足利成氏との戦いを前にした太田道灌は当社に参詣し、神馬・宝剣を捧げて戦勝を祈願した。その際、「雲払ふ 此神垣の 風の音」と連歌を詠み、この戦いでは成氏を敗走させたという。
続いて道灌は、文明九年の豊島勘解由左衛門との戦いの際、さらに同十一年の千葉孝胤攻略の折にも戦勝祈願に当社に参詣したといわれている。こうした故事から、「勝戦(かちいくさ)の宮」とも呼ばれて信仰を集めた。その一方で、大永年間(一五二一〜二七)には江戸城代遠山丹波守が、また永禄十二年(一五六九)には守護富永神四郎が当社を修理したものの、天正年間(一五七三〜九一)に松田尾張守康秀が社領を没収したのち衰廃するなど、当社にとって戦国時代は波瀾の時期でもあった。
境内には、寛永十九年(一六四二)十一月に駒込村の農民によって建立された庚申塔が遺されており、当該地域の信仰の拠点となっていたことが推察される。 |
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駒込 妙義神社 |
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駒込 妙義神社 |
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駒込 妙義神社 庚申塔
「新編武蔵風土記稿」妙義社の項に「末社稲荷庚申・寛永寛文庚申ノ碑ニアリ、是ヲ神体トス」とありて江戸時代には稲荷として祀られていた事がわかる。
昭和四十年(一九六五)神社復興工事の際、境内土中より発堀され社殿左側奥に建立されたが今回の境内整備に伴い現位置に遷された。
尚寛文二年(一六六二)の碑は戦災で失われたと思われる。 |
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駒込 妙義神社 庚申塔 |
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本郷通り 霜降橋交差点
豊島区側の妙義坂を下った所にある交差点で、この交差点の先から北区になり、大炊介坂を上る。 |
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本郷通り 大炊介坂を上る
JR駒込駅から長い妙義坂を下り、霜降橋交差点の先から急な大炊介坂を上って、西ヶ原交差点を左折して旧古河庭園に向かう。 |
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本郷通り 西ヶ原交差点で左折 |
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本郷通り 西ヶ原交差点 大炊介坂
坂の名は、この辺りに住んでいた中世の武将保坂大炊介にちなんで大炊介坂と呼ばれているが、坂の上の平塚神社にちなんで宮坂とも、樹木に覆われていたので暗闇坂とも呼ばれていた。 この道は岩槻街道で、江戸時代には将軍の日光東照宮社参の行列が通ったため日光御成道と呼ばれたが、現在は本郷通りと呼ばれている。 この辺りには江戸時代には牡丹園が設けられたこともあった。 |
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本郷通り 旧古河庭園 洋館
旧古河庭園については別ページにまとめた。 |