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光西寺〜中院〜仙波東照宮

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天然寺(寿老人) 門前で右折、国道16号バイパスへ 天然寺(寿老人) 門前で右折、国道16号バイパスへ 
国道16号バイパスから直ぐ左折、住宅街へ 国道16号バイパスから直ぐ左折、住宅街へ 
住宅街を道案内の標識に従い歩く 住宅街を道案内の標識に従い歩く 
住宅街を道案内の標識に従い歩く 住宅街を道案内の標識に従い歩く 

このホームページ(万歩計)は、画面通りに進めば目的地に着くことを狙いとし、全ての曲る場所を掲載している。

その趣旨で写真を撮ってきたが、写真を見てもどこなのか場所を特定できるものが見つけられず、短距離で曲がり続けるため、枚数だけが大きく膨れあがってしまった。そのため、以下では代表的な部分だけにした。若干遠回りでも国道、県道を利用し、しっかりした地図をWebなどで用意したほうがよく、お勧めである。
川越福音自由教会前を歩く 川越福音自由教会前を歩く 
仙波三丁目交差点 喜多院案内図 仙波三丁目交差点 喜多院案内図 

現在地は中央下の進入禁止マークである。上の緑のブロックは喜多院で、コースとしては両者を結ぶ上下の道路である。

片道1車線だが、歩道がついた初めてのまともな道を直進する。
光西寺 光西寺 

緇川山 常楽院 光西寺 略歴

光西寺は、永禄9年(1566)に石州浜田(島根県浜田市)に、恵誉法師を開基として寺が建立されたのに始まる。浜田藩士の菩提寺として尊崇されていたが、天保七年(1836)、十代藩主康爵の時、半は日本海の孤島「竹島」を根拠地として外国との貿易(当時は禁制)を行なって、政府の政策に違反した。ことは幕府の密偵間宮林蔵の調べで露見し、藩は本来ならばお家取り潰しになるところ、徳川家の親藩の故をもって減刑、重臣の岡田頼母、松井圖書の二人が責任をとって切腹、船頭が処刑され、藩は奥州棚倉(福島県)に左遷転封されるにとどまった。家臣ともども光西寺も棚倉に移住し東林寺に仮住まいした。棚倉在住三十余年、維新の危機に直面した幕府は、城主松平周防守康英の英明と外交的手腕を重視し、老中職に任じ川越城主に転封させ国内国外の重要政務の責任者とした。慶応二年(1866)十月、光西寺も家臣とともに川越に転地し、南町養寿院門前の千手院を仮寺とした。その翌々年は明治維新となったので、寺領も貰えず寺の建立もならず、漸く大正の末に現在の場所に小堂を建立したのである。藩についてきた寺ということで士族寺とかお伴寺とかよばれている。
光西寺 光西寺 

中には入れないが、家紋付きの立派な門である。
中院 鐘楼門 中院 鐘楼門 

由緒ありげな鐘楼門なので、立ち寄ることとした。

何度も言うようにコースマップは七福神の場所しか書かれておらず、喜多院は大黒天を祀っているので描かれているが、故事来歴などは書かれていない。七福神に無関係な中院は一時は喜多院よりも勢力があったが、喜多院に行くための目標の位置付けでマップに描かれている。
中院 秋元侯家老 太陽寺盛胤一族之墓 中院 秋元侯家老 太陽寺盛胤一族之墓 

郷土誌「多度武の雁」著者で、秋元侯家老 太陽寺盛胤一族之墓である。
中院 中院 

 中院創立の縁起は喜多院と全く同じで、天長七年(八三〇)慈覚大師によって創立された。元来星野山無量寿寺のなかに北院・中院・南院の三院があり、それぞれ仏蔵院、仏地院、多聞院と称していたものである。
 当初の中院は、現在の東照宮の地にあったが、寛永一〇年(一六三三)東照宮建造の折りに現在地に移されたものである。
 喜多院に天海僧正が来住する以前は、むしろ中院の方が勢力をもっていたことは、正安三年(一三〇一)勅願所たるべき口宜の写しや、慶長以前の多数の古文書の所蔵によって知られる。秋元侯の家老太陽寺一族の墓島崎藤村の義母加藤みきの墓などがある。
中院 中院 
中院 中院 
中院 島崎藤村先生記念碑 中院 島崎藤村先生記念碑 
中院 中院 
中院 中院 
住宅街を通り、喜多院へ 住宅街を通り、喜多院へ 
仙波東照宮 入口 仙波東照宮 入口 

係員の指示に従い、仙波東照宮経由で喜多院に向かう。
仙波東照宮 仙波東照宮 

 徳川家康をまつる東照宮は、家康の没後その遺骸をた久能山から日光に移葬した元和三年(一六一七)三月、喜多院に四日間とう留して供養したので、天海僧正が寛永十年(一六三三)一月この地に創建した。その後寛永十五年(一六三八)正月の川越大火で延焼したが、堀田加賀守正盛を造営奉行とし、同年六月起工、同十七年完成した。当初から独立した社格をもたず、喜多院の一隅に造営されたもので日光・久能山の東照宮とともに三大東照宮といわれている。社の規模は表門(随神門)・鳥居・拝幣殿・中門(平唐門)・瑞垣・本殿からなっている。本殿の前には歴代城主奉献の石灯寵がある。なお拝殿には岩佐又兵衛勝以筆の三十六歌仙額と幣殿には岩槻城主阿部対馬守重次が奉納した十二聡の鷹絵額がある。
仙波東照宮 表門(随神門) 仙波東照宮 表門(随神門) 
仙波東照宮 東照宮随身門・石鳥居 仙波東照宮 東照宮随身門・石鳥居 

 境内入口にある随身門は朱塗八脚門・切妻造でとち葺形銅板葺である。
八脚門とは三間Xニ間の門で。門柱四本の前後に各一本ずつの控柱をもっている屋根つき門のことてある。以前には後水尾天皇の御宸筆なる「東照大権現」の額が掲けられていた。記録によるとこの勅額は寛永十年(一六三三)十二月二十四日とあるから東照宮の創始の時期を知るひとつの資料となっている。石鳥居は寛永十五年(一六三八)九月に造営奉行の堀田正盛が奉納したもので、柱に「東照大権現御宝前、寛永十五年九月十七日堀田加賀守従四位下藤原正盛」の銘文が刻まれており、様式は明神鳥居てある。
仙波東照宮 石鳥居 仙波東照宮 石鳥居 
仙波東照宮 拝殿 仙波東照宮 拝殿 
仙波東照宮 右折して喜多院へ 仙波東照宮 右折して喜多院へ 
仙波東照宮 葵庭園 仙波東照宮 葵庭園 

私たち川越葵ライオンズクラブは、平成15年から毎年6月末、ホタル鑑賞会「ホタル祭り」を実施し、市民の皆様に初夏の一夜を楽しんで頂いております。
本年、当クラブ結成30周年記念事業として、この庭園が自然のホタル自生地となるよう願いを込め、庭園のシンボルである池の護岸整備、八ツ橋造営、清流を保つポンプ設置を実施致しました。
池にはホタルが生息しております。この池で産卵し、翌年5月下旬から7月上旬にかけて飛び立ち、幻想的な光を放ちます。
どうかホタルをかわいかって下さい。また池の美化にもご協力下さい。
葵庭園のホタルが永遠に光を放つよう見守って頂ければ幸いです。
                          平成19年5月
                      川越葵ライオンズクラブ
仙波東照宮 厳島弁財天(葵庭園)  仙波東照宮 厳島弁財天(葵庭園) 



 
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