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喜多院 界隈案内図
上が南で、現在地は左角上の喜多院を出た所である。これから下の川越城本丸御殿を経て、右下の蔵造りの町並みに向かう。 |
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喜多院 参道出口 |
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川越七福神 第四番 成田山川越別院(ゑびす天)
成田山川越別院
成田山川越別院は、川越別院成田山本行院と称し、いつの頃からか「久保町のお不動様」とも呼ばれるようになった。
本尊は不動明王で、内外の諸難や汚れを焼き払い、人々を守るといわれ、願をかける時などに奉納する絵馬のため、境内には絵馬堂も建立されている。
当寺は、江戸時代も末の嘉永六年(一八五三)、ベリーが黒船を率いて浦賀に来航した年に、下総の国新宿(現葛飾区)の石川照温が、廃寺となっていた本行院を成田山新勝寺の別院として再興したのが始まりといわれている。石川照温については、次のような話が伝えられている。
農家に生まれた石川照温は、三十歳の頃に目が見えなくなってしまった。光明を失くした照温は、ある日のこと自ら命を絶とうとしたが、その時不思議なことに光を失った眼前に不動明王が見えたので、にわかに仏道に目覚め、それまでの生活を改めるとともに、有名な成田山新勝寺のお不動様を熱心に信仰するようになった。
そのかいあってか、失明した目もいつか昔のように見えるようになったので、いよいよ仏道に励み、当地に寺を建立し、多勢の信者から慕われるようになったとのことである。
なお、照温の碑が、近くの中院墓地に建てられている。 |
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川越七福神 第四番 成田山川越別院(ゑびす天) |
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川越七福神 第四番 成田山川越別院(ゑびす天) |
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川越七福神 第四番 成田山川越別院(ゑびす天) |
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川越七福神 第四番 成田山川越別院(ゑびす天)
恵比寿天は末社として祀られている。 |
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川越七福神 第四番 成田山川越別院(ゑびす天)
小江戸川越七福神
成田山(真言宗)
第四番 ゑびす天
恵比須様は「福の神」の代表で、農村では、田の神、街では市神、福利を招く神として、鯛を抱いた福々しい相好でなじみ深く、人々から深い信仰が寄せられています。
秋の七草 撫子
なでしこが花見る毎にをとめらが
ゑまひのにほひ思ほゆるかも
万葉集巻十八
河原撫子は河原辺に生えるかれんな花の意味で、美しい淡紅色の花を開かせます。
花言葉ー貞節 |
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成田山川越別院入口から右折、川越日高線(県道15号)へ |
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川越日高線(県道15号) 道案内の標識に従い、左折 |
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道案内の標識に従い進む
さすがに川越の観光名所である喜多院界隈は道案内が充実している。 |
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川越市上下水道局前を進む |
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川越市立診療所前を進む |
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川越市立診療所前を進む
診療所の先に裸木のイチョウ並木が見える。そこで左折すると三芳野神社であるが、川越市が立てた道案内だけでは道に迷いかねない。事前に詳細な地図を用意し、確認しておくことが必要である。 |
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左折し、三芳野神社の裸木のイチョウ並みの参道へ |
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三芳野神社 参道入口 伊勢物語の碑
伊勢物語の一節が書かれている。
我が方によると鳴くなる
三芳野の田面の雁を
いつかわすれむ |
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三芳野神社 裸木のイチョウ並みの参道 |
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三芳野神社 |
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三芳野神社
三芳野神社は、平安時代の初期に成立したと伝えられ、川越城内の天神曲輪に建てられている。この為、「お城の天神さま」として親しまれている。この天神さまにお参りするには、川越城の南大手門より入り、田郭門をとおり、富士見櫓を左手に見、さらに天神門をくぐり、東に向う小道を進み、三芳野神社に直進する道をとおってお参りしていた。
この細い参道が、童唄「通りやんせ」の歌詞の発生の地であるといわれ、現在でも静かな環境を保持しており、伝説の豊かな地である。
なお、参道は、江戸時代より若干変化している。 |
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三芳野神社
平安時代のはじめ大同年間(八〇六〜八一〇)の創建と伝え、三芳野十八郷の惣社として崇敬をあつめました。太田道灌は川越城築城にあたって当社を鎮守とし、江戸時代以降は徳川幕府直営の社として庇護を受けました。
寛永元年(一六二四)幕府の命をうけて川越城主酒井忠勝が奉行となり再興に着手、幕府棟梁鈴木近江守長次が造営にあたりました。その後、明暦二年(一六五六)川越城主松平伊豆守信綱が奉行となり、幕府棟梁木原義久が改修を加えました。社殿の屋根はこけら葺でしたが、弘化四年(一八四八)幕府棟梁甲良若狭により瓦葺に改められ、さらに大正十一年銅板葺きに改められました。(以下略) |
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三芳野神社 社殿左から川越城本丸御殿へ |
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川越城本丸御殿 |
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川越城本丸御殿 |
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川越城 復元図
本図は、「日本城郭史資料」の川越城図をもとに作成したものです。 |
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小江戸川越巡回バス 本丸御殿バス停 |
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川越市立博物館
川越城本丸御殿から北上し、道路を隔てた向かいにある。 |
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川越市立美術館、川越市立博物館
博物館の左に美術館がある。 |
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郭町交差点を渡り、西進
道路名が分からないが、立派な道路である。 |
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川越城 中ノ門堀跡 |
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川越城 中ノ門堀跡 川越城と中ノ門堀
川越城は、長禄元年(1457)に扇谷上杉持朝の家臣である太田道真・道灌父子によって築城されました。当時、持朝は古河公方足利成氏と北武蔵の覇権を巡る攻防の渦中にあり、川越城の築城はこれに備えたものです。天文6年(1537),小田原を本拠とする後北条氏は川越城を攻め落とし、同15年の河越夜戦によって北武蔵への支配を盤石なものとします。しかし、天正18年(1590)の秀吉の関東攻略に際して前田利家に攻められて落城します。江戸時代になると、川越城は北の守りとして重視され、親藩・譜代の大名が藩主に任じられました。寛永16年(1639)に藩主となった松平信綱は城の城の大規模な改修を行い、川越城は近世城郭ヒしての体裁を整えるにいたりました。中ノ門堀はこの松平信綱による城の大改修の折に造られたものと考えられます。まだ天下がか治まって間もないこの時代、戦いを想定して作られたのが中ノ門堀だったのてす。
現在地のあたりには、な前の由来となった中ノ門が建てられていました。多賀谷家所蔵の絵図によれば、中ノ門は2階建ての櫓門で、屋根は入母屋、本瓦葺き1階部分は梁行15尺2寸(4.605m)桁行30尺3寸1分(9.183m)ほどの規模でした。棟筋を東西方向に向け、両側に土塁が取り付き、土塁の上には狭間を備えた土塀が巡っていました。 |
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川越城 中ノ門堀跡 中ノ門堀のしくみ
中ノ門堀は戦いの際、敵が西大手門(市役所方面)から城内に攻め込んた場合を想定して造られています。西大手門から本丸(博物館方面)をめざして侵入した敵は中ノ門堀を含む3本の堀に阻まれて直進てきません。進撃の歩みがゆるんだところに、城兵が弓矢を射かけ鉄砲を撃ちかけるしくみでした。また、発掘調査ては城の内側と外側で堀の法面勾配が異なることがわかりました。中ノ門堀の当初の規模は深さ7m、幅I8m、東側の法面勾配は60° 西側は30°でした。つまり、城の内側ては堀が壁のように切り立って、敵の行く手を阻んていたのてす。
明冶時代以降.川越城の多くの施設・建物か取り壊される中、中ノ門堀跡は旧城内に残る唯一の堀跡となりました。川越城の名残をとどめるこの堀跡を保存してゆこうという声が市民の間から起こり、川越市ては平成20 ・21年度に整備工事を行いました。 |
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川越城 中ノ門堀跡 |
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川越市役所前を西進 |