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外堀通り 日枝神社 山王鳥居(西参道) |
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日枝神社 山王鳥居(西参道) 境内案内図 |
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日枝神社 山王鳥居(西参道) 神社案内
磨滅などで読みにくいが、祭神や歴史などが書かれている。 |
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日枝神社 鳥居先の突き当りで右折、西参道へ
左の赤小鳥居の列は稲荷参道である。稲荷参道を上って行くと本殿裏の山王稲荷神社に出る。 |
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日枝神社 西参道 |
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日枝神社 西参道 山王橋上で山王橋参道に合流 |
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日枝神社 山王橋上 境内案内 |
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日枝神社 山王橋上 山王まつり案内
神田明神の天下祭と隔年で行われる山王祭は色々な行事があり、その一覧が掲示されている。神幸祭は6月8日である。 |
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日枝神社 日枝あかさか、山王茶寮 |
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日枝神社 神幸祭のポスター
ポスターの下には巡回路のポイントごとの時刻が書かれている。
写真では御輿を担ぐ神人の服装も立派だが、2年前に神幸祭を見物した時は色褪せてすり切れており、立派な神田明神の天下祭との差を感じた。 |
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日枝神社 祭神、由緒
山王さま 日枝神社(元官幣大社)
御祭神 大山咋神
御祭神大山咋神は山末之大主神とも称え、古来比叡の山に鎮り京の都の護神として山・水を始め田畑を司り萬物の生成化育を守り給う。
由緒
鎌倉の初期秩父氏の流れ重継は江戸太郎を名乗りその館の中に日吉の大神を勧請した。降って文明年間(一四七八年ごろ)足利の宰相太田道灌持資が城内に、更に天正十八年徳川家康が入府し江戸城内の紅葉山に新本殿を造営した。
徳川三代家光は一般市民の参拝の便を企るため半蔵門外に遷座、朱印地を六百石に加増、四代家綱の代萬治二年振袖火事のため永田町溜池に臨む景勝の星ヶ岡に遷座、現在に至る。
歴代の将軍世子の社参絶えることなく都度神馬・太刀(国宝)等を献じた(宝物殿に出陳中)。
日枝神社の山王まつりは、神田まつりと共に天下祭・御用祭として華麗豪壮、正に天下随一と称えられた。
明治維新、遷都により江戸城は明治天皇皇居(宮城)となり、当神社は皇城の鎮守神として官幣の大社に列した。
氏子崇敬区域
皇居を中心に外濠の内側千代田・中央両区を中心に永田町・霞が関・平河町・隼町・麹町・紀尾井町・番町・九段・四谷・大手町・丸の内・有楽町・内幸町・八重洲・日本橋・兜町・茅場町・京橋・銀座・八丁堀・新橋等、首都東京の中心を占める。 |
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日枝神社 神門 |
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日枝神社 本殿 |
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日枝神社 表参道(男坂) |
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日枝神社 宝物殿横のさざれ石 |
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日枝神社 宝物殿横のさざれ石
さざれ石の由来
この石は学名を石灰質角礫岩と言う。 石灰岩が雨水に溶解してその石灰分を含んだ水が時には粘着力の強い乳状態となり地下で小石を集結して大きくなる。
やがて地上に出て国歌に詠まれているように千代・八千代年を過ぎてさざれ石、巌となりて苔のむすと景観実に目出度い石である。
この石は国歌発祥の地と言われる岐阜県揖斐郡春日村の山中より発掘され、その終結の過程状態を一見よく知ることが出来る。
さきに昭和三十七年文部省の中庭に贈られた「さざれ石」の木札に記されたとおり、この「さざれ石」は岐阜県揖斐川町出身の故小林宗閉氏によって世に広められた。 |
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日枝神社 宝物殿 |
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日枝神社 山王橋
山王橋を下った所に赤坂山王大鳥居が見え、その先が外堀通りである。 |
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外堀通り 日枝神社 赤坂 山王大鳥居 |