後楽園〜本駒込〜駒込
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東京の名園 六義園・旧古河庭園 | ||
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千川通り 富坂下交差点で春日通りを渡る 千川通りは右手の白山通りと並行している。左右に春日通りが本郷通り(岩槻街道)り、左の富坂の途中に春日局の像が本郷通り(岩槻街道)り、上りきった所に中大理工学部が本郷通り(岩槻街道)る。右には白山通りとの春日町交差点がある。春日は春日局の拝領地だったことに由来する。 |
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千川通り 富坂下交差点 文京シビックセンター 白山通りと春日通りと交差する春日町交差点から富坂下交差点の間にあり、文京区役所でもある。 |
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千川通り こんにゃくえんま前交差点で右折 こんにゃく閻魔は交差点手前の左手にあるが、入口は狭い。 |
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千川通り こんにゃく・えんま(源覚寺) こんにゃく閻魔とは、寺の閻魔王が信心深い老婆に己の右眼を与え、老婆は感謝のしるしとして”こんにやく"を供えつづけたという言い伝えがある。 |
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西片交差点で白山通りを渡る。 | |
菊坂下交差点で左折 二車線やっとの狭い道で、昔の地下鉄が幹線道路を開けて掘り抜くオープン式だったことを考えると隔世の感がある。このような狭い道路でオープン式だったら工事期間中全面閉鎖にせざるを得ない。 |
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本郷弥生交差点で左折、本郷通りへ | |
本郷通り 本郷追分 本郷弥生交差点を100mほど進むと、本郷追分で中仙道(国道17号)は左に曲がり、本郷通りは都道になる。 |
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本郷通り(岩槻街道) 東京大学 農学部 | |
東京メトロ(旧営団) 南北線 東大前駅 駅名は東大前だが、赤門や安田講堂のある東大は春日通りにある丸ノ内線の本郷三丁目駅である。 |
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本郷通り(岩槻街道) とうがらし地蔵(正行寺) | |
本郷通り(岩槻街道) とうがらし地蔵(正行寺) この寺の境内にまつられている地蔵尊は「とうがらし地蔵」と呼ばれ、咳の病に霊験あらたかなことで知られている。『江戸砂子』に「当寺境内に浅草寺久米平内のごとき石像あり。仁王坐禅の相をあらは すと云へり。」とある。 寺に伝わる元文三年(一七三八)の文書によれば、僧の「覚宝院」が、元禄一五年(一七〇二)人々の諸願成就を願い、また咳の病を癒すため自ら座禅姿の石像を刻み、ここに安置したという。以来人々は「覚宝院」が″とうがらし酒″を好んだことから、 とうがらしを供え諸願成就を願ってきた。 |
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本郷通り(岩槻街道)を北上 | |
本郷通り(岩槻街道) 旧駒込蓬莱町 由来 元文年間(1736〜41)町屋が聞かれた。町 内向側に寺院4か寺(瑞泰寺・栄松寺・清林寺・光源寺)があったので、四軒寺町と唱えた。本郷通りの長元寺・浄心寺の両側を江戸時代、ウナギナワテ(まっすぐ細い道)といわれた。 明治5年、浅嘉町の一部と高林寺門前、浩妙寺、浄心寺などの寺地を併せ、町名を蓬莱町とした。 |
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本郷通り(岩槻街道) 淨心寺 本郷通りの大きな布袋様が気になって立ち寄ったが、特に由緒書きなどはない。 |
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本郷通り(岩槻街道) 淨心寺 | |
本郷通り(岩槻街道) お寺マップ 淨心寺の隣の石屋の店頭に展示されているが、寺町というも愚かなほど寺だらけの街である。 |
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本郷通り(岩槻街道) 向丘二丁目交差点で大観音通りを渡る 右折すると駒込大観音がある光源寺を経て、団子坂に向かい、左折するとすぐ中山道と交差する白山上交差点があり、白山神社の近くとなる。 |
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東京メトロ(旧営団) 南北線 本駒込駅 | |
本郷通り(岩槻街道) 旧駒込片町 由来 むかし、駒込村の内であった。後、麟祥院(春日局の菩提寺)領の農地となった。元文2年(1737)町屋を開き、岩槻街道(将軍日光御成道)をはさんで、吉祥寺の西側の片側町であったので駒込片町と称した。 南谷寺の目赤不動は、もと動坂にあったが、寛永のころ(1624〜44)三代将軍徳川家光が鷹狩の途中立寄り、目黒・目白に対して目赤不動と命名し、寺を現在地に移した。 |
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本郷通り(岩槻街道) 目赤不動尊(南谷寺) | |
本郷通り(岩槻街道) 目赤不動尊(南谷寺) | |
本郷通り(岩槻街道) 目赤不動尊(南谷寺) この不動尊は、もとは赤目不動尊と言われていた。元和年間(1615〜24)万行和尚が、伊賀国(いまの三重県)の赤目山で、黄金造りの小さな不動明王像を授けられ、諸国をめぐり、いまの動坂の地に庵を結んだ。 寛永年間(1624〜44)、鷹狩りの途中、動坂の赤目不動尊に立ち寄った三代将軍家光から、現在の土地を賜わり、目赤不動尊とせよとの命を受けこの地に移った。それから目赤不動尊として、いっそう庶民の信仰を集めたと伝えられている。 不動明王は、本来インドの神で、大日如来の命を受けてあくをこらしめる使者である。剣を持ち、怒りに燃えた形相ながら、お不動さんの名で庶民に親しまれてきた。江戸時代から、目赤、目白、目黄、目青、目黒不動尊は五色不動として、その名が知られている。 目白不動尊は、戦災で豊島区に移るまで区内の関□二丁目にあった。 目黒不動 - 瀧泉寺(目黒区下目黒) 東急目黒線 不動前 目白不動 - 金乗院(豊島区高田) 都電三ノ輪線 学習院下 目赤不動 - 南谷寺(文京区本駒込) 地下鉄南北線 本駒込 目青不動 - 教学院(世田谷区太子堂) 東急世田谷線 三軒茶屋 目黄不動 - 永久寺(台東区三ノ輪) 地下鉄日比谷線 三ノ輪駅 |
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本郷通り(岩槻街道) 将軍御成道 この街道は、江戸のころ将軍が日光東照宮にお参りする時に通る道であることから「将軍御成道」といわれ、重要な道路の一つであった。人形のまち・岩槻に通じている道で「岩槻街道」という。現在の東京大学農学部前の本郷追分で、旧中山道とわかれ、駒込へと直進し、王子、岩淵を経て荒川を渡り、岩槻へと向かう。 将軍は、江戸城を発ち、岩槻に一泊し、さらに、古河城、宇都宮城に泊って日光に入ったといわれている。将軍がこの街道を通る時の警備は厳重で、沿道に住む人は、大そう不自由なおもいもしたという逸話が残っている。現在の名は「本郷通り」である。 |
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本郷通り(岩槻街道) 上富士前交差点で不忍通りを渡る この交差点を渡ってすぐ左に六義園の正門があるが、レンガ塀沿いの細道で分かりにくい。 |
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本郷通り(岩槻街道) 六義園 江戸時代中期に作庭された文化財庭園に、幕末以降にもたらされた技術を用いたレンガが使われている理由には、この文化財庭園の歴史的な変遷が大きく関わっています。 江戸時代当時の柳沢家の屋敷範囲と、明治年間以降の岩崎家の敷地とは、文化財庭園として指定された現在の六義園の範囲よりも東西南北にそれぞれ広がっていました。指定文化財範囲から外れた、これらの土地では、日露戦争の祝勝会が開催され、第二次大戦当時には児童向けの科学館など も置かれていました。従って、改修前のレンガ塀は、第二次大戦後に、国指定の文化財として整備する前後の時期に、管理用に構築されたものであり、岩崎家所有当時の外周塀ではありません。しかしながら、柳沢家から岩崎家、そして東京市(府)から東京都へと、所有者や管理者が移り変ってゆく中で、岩崎家が所有していた湯島や本所などの屋敷でも採り入れられた、洋風の意匠であるレンガ塀も、歴史的な変遷を物語る貴重な文化財とい えます。 |
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本郷通り(岩槻街道) 六義園 正門 JR駒込駅前に立派な門があるが、閉鎖されており、レンガ塀沿いの道を西に歩くと正門がある。 六義園は5代将軍徳川綱吉の側用人の柳沢吉保が設計した回遊式築山泉水庭園の大名庭園で、岩崎弥太郎の別邸の後、昭和13年に東京市に寄付された。宜春亭、心泉亭、妹山・背山、吹上茶屋、枝垂れ桜などが有名。 |
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本郷通り(岩槻街道) 文京区コミュニティバス B−ぐる バス停 六義園入口 B−ぐるは、後楽園遊園地のラクーア、文京シビックセンター、根津神社、駒込、千石と周回する。 |
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本郷通り(岩槻街道) 六義園 JR駒込駅から少し南下し、南北線駒込駅を出た目の前にあるが、閉鎖されており、南下して正門から入るよう案内されている。 |
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本郷通り(岩槻街道) 文京区コミュニティバス B−ぐる バス停 南北線 駒込駅 | |
本郷通り(岩槻街道) 駒込駅前 六義園 | |
東京メトロ(旧営団) 南北線 駒込駅 |