大手町〜九段下〜飯田橋
【関連サイト】 | 東京メトロ(旧営団) 東西線(平成15年) | |
東京の名園)皇居東御苑 | ||
直前のページに戻ります。
写真の一覧表へ
永代通り 大手町交差点で日比谷通りを渡る 国道一号線はこの交差点で左折、日比谷通りが国道一号線となる。永代通りは次の大手門交差点までは都道となる。 |
|
永代通り 大手門交差点で右折、内堀通りへ 永代通りは大手門交差点が終点となる。皇居東御苑 |
|
内堀通り 大手門 天守台や、松の廊下跡などがある皇居東御苑に入る外国人観光客が多い。皇居東御苑は大手門から入る人が多いが、竹橋駅の平川門や、北の丸公園の北桔橋門からも入れる。 |
|
内堀通り 大手濠 皇居一周のジョギングをする人が多い。 |
|
内堀通り 気象庁前交差点 内堀通りはこの交差点で大きく左に曲がって行く。半蔵門線は曲がらずに直進する。 |
|
東京メトロ(旧営団) 東西線 竹橋駅 気象庁前交差点の一角はジョギングする人たちの休憩所となっている。 |
|
内堀通り 気象庁前交差点 和気清麻呂像 弓削道鏡の皇位簒奪事件の際、宇佐八幡の神意で防いだことで有名な和気清麻呂の巨像である。 |
|
内堀通り 気象庁前交差点 日本の道100選 城郭と高層ビル 皇居を内堀沿いに一周し、一方には江戸以来の歴史を偲ばせる城郭、掘割を望み、他方には近代的な高層ビル群として親しまれている。 |
|
内堀通り 平川門交差点で白山通りが分岐 平川門交差点で白山通りは直角に右折し、都心環状線の高架下が徳川御三卿の一つである一ツ橋がある。 |
|
内堀通り 平川門 皇居東御苑の入口がある。 |
|
内堀通り 竹橋交差点 毎日新聞社 | |
内堀通り 竹橋 | |
内堀通り 清水濠に沿って左に曲がる | |
内堀通り 清水門 清水濠に沿って歩くと武道館の特徴ある屋根が見え、その手前に清水門が見える。清水門は御三卿の一つ清水家である。 |
|
内堀通り 清水門 清水門から北の丸公園に入ると、科学技術館前に出る。 |
|
内堀通り 九段下交差点 九段会館 旧陸軍の軍人会館で、独特の帝冠様式の建物である。 |
|
内堀通り 九段下交差点で靖国通りを渡る 内堀通りの終点で、目白通りの起点となる。 |
|
東京メトロ(旧営団) 東西線 九段下駅 | |
内堀通り 九段下交差点から見た靖国神社 靖国通りのかなりの急坂の上に靖国神社の大鳥居があり、皇居北の丸公園の御三卿の一つ田安門がある。 |
|
目白通り 飯田橋1丁目交差点 左に東京女子医科大学発祥の地碑がある。このような碑は目白通り沿いに幾つかあり、そのうち興味深いものを撮った。 |
|
目白通り 東京女子医科大学発祥の地碑 吉岡弥生は明治33年(1900)12月5日、この地にあった至誠医院の中に東京女医学校を創立しました。翌34年4月、同校は牛込区市ヶ谷仲之町に移転、のちに市ヶ谷河田町へ移転して現在の東京女子医科大学に続きます。吉岡弥生の至誠医院は明治41年(1908)に旧飯田町4丁目31番地に移り、関東大震災までありました。 |
|
目白通り 東京女子医科大学発祥の地碑 | |
目白通り 東京大神宮 「東京のお伊勢さま」と親しまれる神社。明治天皇により東京での伊勢神宮の遥拝殿として明治13年、日比谷に創建。日比谷大神宮と称された。昭和3年に現在地に移ると飯田橋大神宮と呼ばれるようになり、戦後に「東京大神宮」と改めた。神前結婚式創始の神社であり、縁結びに御利益があるという。 |
|
目白通り 新徴組屯所跡の碑 文久二年(一八六二)に出羽浪人清河八郎によってつくられた浪士組は新徴組と名を改め、ここの武家屋敷を屯所として幕末の警備に当たりました。清河は幕府に献策をして浪士組をつくり、将軍警護のために上洛します。しかし清河のねらいとする所は幕府の意に反する浪士組による尊皇攘夷の実行でした。そのため彼は策をもちいて江戸に戻りますが暗殺されてしまいます。京に残った浪士組の一派が幕末史に華を添える新選組となります。その後新徴組は庄内藩主酒井佐衛門尉に従い戊辰戦争を戦い、明治になってからは山形県鶴岡で開拓者生活を送り悲劇的な話を残しています。 |
|
目白通り 新徴組屯所跡の碑 | |
目白通り 日本赤十字社跡の碑 明治十年(一八七七)西南の役の時、佐野常民は博愛社を結成し、傷兵の救護活動を開始しました。明治十九年(一八八六)、旧麹町区飯田町四丁目、現在のJR飯田町駅のところに博愛社という病院を建てました。その年、日本は国際赤十字条約に加入し、翌二十年博愛社は日本赤十字社となを改めました。明治二十七年(一八九四)、甲武鉄道が飯田町駅を建設するため立ち退き、この地に移転、大正元年(一九一二)に芝に移るまでここにありました。 |
|
目白通り 日本赤十字社跡の碑 | |
目白通り 東京農業大学 開校の地碑 明治二十四年(一八九一)、この地、旧東京市麹町区飯田町河岸十番地に東京農業大学の前身育英黌農業科が徳川育英会により設立されました。初代黌主は榎本武揚でした。明治二十五年(一八九二)、現在の中央線である甲武鉄道の新設工事、また農場用地取得のため大塚窪町に移転しました。 |
|
目白通り 東京農業大学 開校の地碑 | |
東京メトロ(旧営団) 東西線 飯田橋駅 |