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内堀通り 九段下交差点で靖国通りを渡り、目白通りへ
内堀通りは九段下交差点で左折、靖国通りと重なり九段坂上交差点で分岐する。交差点を渡ると目白通りの起点となる。 |
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目白通り 九段北一丁目交差点 |
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目白通り ホテル グランドパレス |
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目白通り 飯田橋一丁目交差点 東京女子医科大学発祥の地碑
吉岡弥生は明治33年(1900)12月5日、この地にあった至誠医院の中に東京女医学校を創立しました。翌34年4月、同校は牛込区市ヶ谷仲之町に移転、のちに市ヶ谷河田町へ移転して現在の東京女子医科大学に続きます。吉岡弥生の至誠医院は明治41年(1908)に旧飯田町4丁目31番地に移り、関東大震災までありました。 |
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目白通り 飯田橋一丁目交差点 東京女子医科大学発祥の地碑
このような碑は目白通り沿いに幾つかあり、そのうち興味深いものを撮った。 |
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目白通り 北辰社牧場跡
榎本武揚は明治の始め、北辰社牧場をここに開きました。幕臣榎本は文久2年(1862)オランダに留学を命じられ、当時のヨーロッパ事情や法律、化学などを広く習得しました。幕府が瓦解すると榎本は指揮下の海軍をひきいて函館までも転戦しましたが、黒田清隆や山田顕義らの率いる官軍の軍門に下り、捕われの身となります。しかし、彼の新知識を惜しまれて許され、新政府では幾多の要職を歴任しました。一方、旧幕臣子弟の為の育英黌農業科や北辰社牧場などを作りました。最盛期には乳牛が四,五十頭もいて新しい飲物、牛乳を提供していました。 |
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目白通り 北辰社牧場跡
泥などで汚れがひどく、読みにくい。 |
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目白通り 東京大神宮の石柱角で左折、大神宮通りへ |
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目白通り 東京大神宮の石柱角 徽章業 発祥の地碑
この奥、大神宮通り向かって左側に明治18年(1885)、鈴木梅吉により日本帝国徽章商会が創られました。これは民間の徽章業のはじめで、特に明治末期、大正の初期においては日本で唯一の徽章の製作工場として大変栄えました。現在の徽章業の方々の大多数はこの商会の流れを汲み、徽章業は飯田町の日本徽章商会から生まれたといわれています。そして、現在もこのあたりは徽章業に従事する人が沢山います。 |
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目白通り 東京大神宮の石柱角 徽章業 発祥の地碑
東京大神宮の石柱が目立って見落としやすいが、手前の目白通り沿いにある。 |
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大神宮通り 東京大神宮
「東京のお伊勢さま」と親しまれる神社。明治天皇により東京での伊勢神宮の遥拝殿として明治13年、日比谷に創建。日比谷大神宮と称された。昭和3年に現在地に移ると飯田橋大神宮と呼ばれるようになり、戦後に「東京大神宮」と改めた。神前結婚式創始の神社であり、縁結びに御利益があるという。
大神宮通りの坂をけっこう上った所にある。なぜか、近隣のOLが次々と一人で参拝に来る。 |
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東京大神宮 御由緒
明治天皇のご裁断を仰ぎ、東京における伊勢神宮の遥拝殿として明治十三年に創建された当社は最初日比谷の地に鎮座していたことから、世に日比谷大神宮と称されていました。関東大震災後の昭和三年に現在地に移ってからは飯田橋大神宮と呼ばれ戦後は社名を東京大神宮と改め今日に至っております。(以下略) |
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東京大神宮 |
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東京大神宮 |
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大神宮通りの坂を下る |
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目白通り 飯田橋二丁目交差点 |
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目白通り 総武線 飯田橋駅ホーム
目白通りに架かる総武線飯田橋駅ホームが見えると、その前に東西線の出入口がある。 |
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目白通り 飯田橋駅前 東京農業大学 開校の地碑
明治二十四年(一八九一)、この地、旧東京市麹町区飯田町河岸十番地に東京農業大学の前身育英黌農業科が徳川育英会により設立されました。初代黌主は榎本武揚でした。明治二十五年(一八九二)、現在の中央線である甲武鉄道の新設工事、また農場用地取得のため大塚窪町に移転しました。 |
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目白通り 飯田橋駅前 東京農業大学 開校の地碑 |
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東京メトロ 東西線 飯田橋駅
飯田橋駅と一口に言うが、東西線は目白通り沿いにあり、南北線と有楽町線は濠を挟んでJRの駅に向かい合う外堀通りの地下にある。大江戸線は外堀通りの水道橋側にあり、地下鉄4線は飯田橋交差点の地下で接続する形になる。
そのため、東西線から同じ東京メトロの有楽町線や南北線に乗り換える時は、一旦改札を出て他線に入り直すことになる。有楽町線と南北線は階段の上り降りで接続する。
それにしてもJRと都電の駅に過ぎなかった飯田橋であるが、東西線が開通しても雰囲気は変わらず、まさかこんなに大きな駅になるとは思わなかった。 |