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【撮影記録】
平成24年 11月 27日 晴
09:50〜12:20 15,300歩(概算 10.7km 地図上 9.0km) 飯田橋〜中野
営業距離 8.0km 駅数 6

快晴といってもいい小春日和の一日だったが、次第に風が強くなり、向かい風では身構えながら歩く有様だった。
東西線は飯田橋交差点から大久保通りを上って行くが、大江戸線と同じなので毘沙門天で有名な善國寺がある神楽坂を上ることとした。

地図では機能上示せない場所(例えば早稲田の構内)を歩いているので、歩数から計算した距離とに差がある。
外堀通り 神楽坂下交差点で右折、神楽坂通り(早稲田通り)ヘ 外堀通り 神楽坂下交差点で右折、神楽坂通り(早稲田通り)ヘ 
外堀通り 神楽坂下交差点で右折、神楽坂通り(早稲田通り)ヘ 外堀通り 神楽坂下交差点で右折、神楽坂通り(早稲田通り)ヘ 
外堀通り 神楽坂下交差点で右折、神楽坂通り(早稲田通り)ヘ 外堀通り 神楽坂下交差点で右折、神楽坂通り(早稲田通り)ヘ 

 坂名の由来は、坂の途中にあった高田八幡(穴八幡)の御旅所で神楽を奏したから、津久戸明神が移ってきた時この坂で神楽を奏したから、若宮八幡の神楽が聞こえたから、この坂に赤城明神の神楽堂があったからなど、いずれも神楽にちなんだ諸説がある。
神楽坂通り(早稲田通り) 神楽坂を上る 神楽坂通り(早稲田通り) 神楽坂を上る 

神楽坂下交差点で外堀通りを渡り、神楽坂を上る。早稲田通りの名が場所の雰囲気に馴染まない。やはり「神楽坂」通りの方がよい。
神楽坂通り(早稲田通り) 神楽坂を上る 神楽坂通り(早稲田通り) 神楽坂を上る 
神楽坂通り(早稲田通り) 善國寺(毘沙門天) 神楽坂通り(早稲田通り) 善國寺(毘沙門天) 

「神楽坂の毘沙門さま」として、江戸時代より信仰を あつめた毘沙門天立像である。
 木彫で像高三十センチ、右手に鉾、左手に宝塔を持ち、磐座に起立した姿勢をとる。造立時期は室町時代頃かと推されるが、作者とともに詳しくは不明である。
神楽坂通り(早稲田通り) 善國寺(毘沙門天) 神楽坂通り(早稲田通り) 善國寺(毘沙門天) 

普通は狛犬であるが、石虎が飾られている。
神楽坂通り(早稲田通り) 善國寺(毘沙門天) 神楽坂通り(早稲田通り) 善國寺(毘沙門天) 

善國寺の毘沙門天像

 「神楽坂の毘沙門さま」として、江戸時代より信御をあつめた毘沙門天立像である。
 木彫で像高三十センチ、右手に鉾、左手に宝塔を持ち、磐座に起立した姿勢をとる。造立時期は室町時代頃と推定されるが、詳しくは不明である。加藤清正の守本尊司だったとも、土中より出現したともいわれる。
 善國寺は、文禄四年(一五九五)徳川家康の意を受けて日惺上人にとり創建された。この像は、日惺上人が鎮護国家の意をこめて当山に安置したもので、上人が池上本門寺に入山するにあたり、二条関白昭実公より贈られたと伝えられる。
 毘沙門天は、別名を多聞天と称し、持国天・増長天・広目天と共に四天王の一つである。寅の年、寅の月、寅の日、寅の刻に世に現れたといい、北方の守護神とされる。
 善國寺の毘沙門天は、江戸の三毘門天と呼ばれ、多くの参詣者を集め、明治・大正期には東京でも有数の信仰地として賑わった。現在も、正月・五月・九月の初寅の日に毘沙門天を開帳し、賑わいを見せている。
神楽坂通り(早稲田通り) 善國寺(毘沙門天) 神楽坂通り(早稲田通り) 善國寺(毘沙門天) 

善國寺の石虎

 安山岩製の虎の石像で、像高は阿形(右)が八十二センチ、吽形(左)は八十五センチで、台石・基壇部も含めた総高は、両像ともにニメートルをこえる。台石正面には浮彫があり、虎の姿を動的に表現している。
 嘉永元年(一八四八)に奉納されたもので、阿形の台石右面には、「岩戸町一丁目」「藁店」「神楽坂」「肴町」などの町名と世話人名が刻まれ、寄進者が善國寺周辺の住民であったことがわかる。石工は原町の平田四郎右衛門と横寺町の柳沼長右衛門である。
 善國寺は毘沙門天信仰から「虎」を重視し、石虎の造立も寄進者からの毘沙門天信仰によると考えられる。また、台石に残された寄進者名や地名は、江戸時代後期における善國寺の毘沙門天信仰の広がりを示している。
 石虎は都内でも珍しく、区内では唯一の作例である。戦災による傷みが見られるが、希少な石像であるとともに、地城にとっても貴重な文化財である。
 なお、阿形の台石正面にある「不」に似た刻印は、明治初年のイギリス式測量の几号水準点で、残存している数は全国的にも少ない。
神楽坂通り(早稲田通り) 神楽坂上交差点で大久保通りを渡る 神楽坂通り(早稲田通り) 神楽坂上交差点で大久保通りを渡る 
神楽坂通り(早稲田通り) 神楽坂上交差点で大久保通りを渡る 神楽坂通り(早稲田通り) 神楽坂上交差点で大久保通りを渡る 

大江戸線が走る大久保通りと交差する。大久保通りを少し新宿側に進むと牛込神楽坂駅がある。

本来の東西線は飯田橋交差点から大久保通りを走り、この交差点手前で右に曲がり神楽坂通り(早稲田通り)に入る。
神楽坂通り(早稲田通り) 神楽坂を上る 神楽坂通り(早稲田通り) 神楽坂を上る 

神楽坂上交差点を過ぎると、商店会が変わるせいか、神楽坂の幟が色、書体共に変わる。
神楽坂通り(早稲田通り) 神楽坂を上る 神楽坂通り(早稲田通り) 神楽坂を上る 
神楽坂通り(早稲田通り) 神楽坂駅手前で右折 神楽坂通り(早稲田通り) 神楽坂駅手前で右折 

交差点名はないが、手前に赤城神社の白杭があり、渡ってすぐに地下鉄出入口の看板が見える。
神楽坂通り(早稲田通り) 赤城神社 神楽坂通り(早稲田通り) 赤城神社 

赤城神社は後伏見天皇の正安二年(西紀一三〇〇年)に群馬県赤城山麓大胡の豪族、大胡氏が牛込に移住の際本國の鎮守であった赤城神社の御分霊を、牛込早稲田村田島(今の早稲田鶴巻町、元赤城神社の所在地)にお祀リし、寛正元年に太田道灌が神威を尊び牛込台に遷移し奉り、其の後、弘治元年(西紀一五五五年)に至り大胡宮内少輔(牛込氏)の尊信特に深く現在の地に遷し奉ったものと伝えられております。
神楽坂通り(早稲田通り) 赤城神社 神楽坂通り(早稲田通り) 赤城神社 

お祀りしている神様

 「磐筒雄命」(いわつつおのみこと)
 「赤城姫命」(あかぎひめのみこと)

 後伏見帝の正安二年九月、上野国赤城山なる赤城神社の分霊を今の早稲田鶴巻町の森中に小祠を勧請。其後百六十餘年を経て寛政元年太田道灌持資が牛込毫へ遷座。其後大胡宮内小輔重行が神威を尊び今の地に、始めて「赤城大明神」と称えるようになった。かくて天和三年幕府は命じて江戸大社の列に加え、牛込の総鎮守となる。
神楽坂通り(早稲田通り) 赤城神社 社殿、螢雪天神 神楽坂通り(早稲田通り) 赤城神社 社殿、螢雪天神 

4年前に来た時とは雰囲気が一変し、社殿は階段の上にあり、左に螢雪天神ができている。以前は朱塗りの社殿が参道と同じ高さにあった。
神楽坂通り(早稲田通り) 赤城神社 社殿、螢雪天神 神楽坂通り(早稲田通り) 赤城神社 社殿、螢雪天神 
神楽坂通り(早稲田通り) 赤城神社 社殿 神楽坂通り(早稲田通り) 赤城神社 社殿 

人の好みにもよるが、朱塗りのほうが趣がある。
神楽坂通り(早稲田通り) 赤城神社 螢雪天神 神楽坂通り(早稲田通り) 赤城神社 螢雪天神 

「螢雪」天神と聞いて、まず思い浮かべたのは旺文社の受検雑誌である「螢雪時代」である。来歴を見たらまさに赤尾の豆単の旺文社が寄進して再興、朝日天満宮を螢雪天神としたとのことである。

旺文社はその後経営悪化し、業態縮小などをしているとのことであるが、よりによって歴史ある神社の名前を商品名に変えるのは不愉快である。
神楽坂通り(早稲田通り) 赤城神社 螢雪天神 神楽坂通り(早稲田通り) 赤城神社 螢雪天神 

ご祭神 菅原道真公

古来より天神様として広く民衆に崇め奉られております。
ご祭神は「学問の神様」菅原道真公を祀ります。この神社はかつて横寺町に鎮座し朝日天満宮と称されておりました。江戸二十五社の一つに列しておりましたが、その後信徒なき為、明治九年三月当境内にご遷座。
その後、戦災により焼失したものを、平成十七年十月現在横寺町にある旺文社の御寄進により「螢雪天神」として復興しました。
「螢雪」とは中国の故事で、苦労して勉学に励むことを意味します。全国の受験生の皆さん、螢雪天神はそんな皆さんを応援しています。
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