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桜田通り(国道1号) 魚籃坂下交差点で都道415号を渡る
右折すると魚籃坂で、坂の中腹に魚籃観音を安置した魚籃寺があることから名付けられた。
坂を上ったところが伊皿子交差点で、右折すると旧高松宮邸(高輪皇族邸)を経て、大石内蔵助など17名が自刃した細川藩下屋敷藩邸跡の公園がある。
さらに直進して伊皿子坂を下ると、泉岳寺に出る。 |
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桜田通り(国道1号) 長松寺 荻生徂徠墓
江戸時代中期の儒学者。字は茂郷、通称惣右衛門、徂徠は号である。寛文六年(一六六六)江戸に生まれた。十四歳から十三年間、父方庵に従って上総国長柄郡本納村に流寓の生活を送り、独学自習、将来の学問の基礎を築いた。元禄三年(一六九〇)江戸に戻り、柳沢吉保に用いられ、将軍綱吉にもしばしば儒学を講義するようになった。綱吉没後、日本橋茅場町に家塾「蘐園」を開いた。家学を重んじ、伊藤仁斎の復古学を批判し、古文辞学を大成した。その学問は経学のみでなく江戸後期の政治、経済、文学等に大きな影響を与えた。「論語徴」「明律国字解」「訓訳示蒙」「蘐園随筆」等多くの著書がある。将軍吉宗の諮問に応えて享保七年(一七二二)「政談」を幕府に献上した。享保十三年(一七二八)一月十九日六十三歳で死去した。 |
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桜田通り(国道1号) 長松寺 荻生徂徠墓 |
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長松寺 荻生徂徠墓
長松寺は桜田通りの魚籃坂下交差点を少し行った所の右手にある。隣に大きな念願寺があり、一見そちらが長松寺のように見える。 |
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長松寺 荻生徂徠墓 |
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長松寺 荻生徂徠墓 |
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長松寺 荻生家墓所
長松寺の墓所に入ると、右奥に荻生家の墓所がある。 |
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長松寺 荻生家墓所
3基の墓のうち、中央が荻生徂徠の墓である。 |
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長松寺 荻生徂徠墓
荻生徂徠は、江戸中期の儒学者で、5代将軍の徳川綱吉にもしばしば儒学を講義した。
赤穂義士の処分について、治安を乱したとして重罰を加えるべきと言う意見と、忠義の士として顕彰すべきとの意見で幕府内の議論がまとまらない時、治安を乱した罪で死罪だが、武士の名誉を重んじた切腹を綱吉に建議したことでも有名。 |
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長松寺 荻生徂徠墓
荻生徂徠(寛文六年(一六六六)-享保十三年(一七二六))の墓
名は雙松、字は茂卿、通称惣右噺門、徂徠はその号であり、物部氏の出を称したところからしばしば物茂卿と自署した。
徂徠は徳川時代の最大の儒者の一人であり、大東の文章我を俟ってはじめて興ると自ら豪語したのは必ずしも誇張ではない。彼の学問は日本儒学史に一大転換をもたらしただけでなく、清朝の儒者からも高い坪価を受けた。
〔学問の特色〕 父方庵の赦免によって南総から江戸に戻り、元禄九年(一六九六)柳沢吉保に仕えて、五代将軍綱吉の知遇を得て儒学を講じた。その頃から早くも徂徠は中国語の会話に関心を持っていたが、言語の構造の歴史的変遷に着目する彼の方法はやがて「古文辞学」に結晶し、享保以後朱子学にたいする体系的批判の展開となって、学会に大きな衝撃を与えた。江戸後期の経学は朱子学者を含めて、積極、消極両面で徂徠の影響なしには考えられない。徂徠が綱吉没後、日本橋茅崎町に開いた私塾は地名にちなんで「蘐園 」と名付けられたが、これはまた徂徠学派の別名ともなった。(以下略) |
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長松寺 荻生家墓所案内
以前はなくて墓銘を見ながら荻生徂徠の墓を探したが、丁寧な案内が付けられている。 |
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桜田通り(国道1号) 幽霊坂
ゆうれいざか
坂の両側に寺院が並び、ものさびしい坂であるためこの名がついたらしいが有礼坂の説もある。幽霊坂は東京中に多く七か所ほどもある。
この一帯は寺町で、坂を上ると伊皿子坂交差点から田町駅に向かう尾根伝いの聖坂に出る。
ちなみに乃木坂も幽霊坂と言われていたが、乃木大将の自刃後に乃木坂と言われるようになった。 |
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桜田通り(国道1号) 幽霊坂 |
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桜田通り(国道1号) 幽霊坂 |
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桜田通り(国道1号) 三田五丁目交差点 |
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桜田通り(国道1号) 三田四丁目交差点で道なりに右に曲がる |
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桜田通り(国道1号) 慶應義塾大学 正門
三田と言えば、慶應大学だが、そのキャンパスは狭い。 |
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桜田通り(国道1号) 三田二丁目交差点で直進、慶応通り振興会の小路へ
桜田通りは左折して赤羽橋に向かう。 |
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慶応通り振興会の小路を歩く
学生やサラリーマンを対象とした所謂一杯飲み屋や、小料理屋が建ち並ぶ。 |
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田町駅西口交差点で左折、第一京浜へ |
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田町駅西口交差点で左折、第一京浜へ |
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第一京浜 芝五丁目交差点で左折、日比谷通りへ |
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第一京浜 芝五丁目交差点で左折、日比谷通りへ
交差点角には港勤労福祉会館がある。 |
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日比谷通り NEC 本社
都営三田線 三田駅の日比谷方向の端の出入り口に聳え立つ。 |
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都営 三田線 三田駅 |