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都営 大江戸線 始発 都庁前駅
右は新宿中央公園で、青色が都庁前駅、左端は新宿西口である。 |
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都営 大江戸線 始発 都庁前駅
大江戸線は都庁前駅を始発とし、環状線となって都庁前に戻り、そこから光が丘に至る路線である。
駅数 39、営業距離 40.7km
都庁前〜飯田場〜両国〜汐留シオサイト〜青山一丁目〜新宿〜練馬〜光が丘
【撮影記録】
平成21年 2月 2日 晴れ
10:40〜13:50 17,600歩(昼食10分)(概算 14.1km)
大江戸線 都庁前〜飯田場〜両国
営業距離 11.7km 駅数 13
営業距離の割には歩いた距離が短いのは、幹線道路の下を走る路線の特性に依る。それほど寒くもなく、歩きやすかった。 |
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大江戸線 都庁前駅 地下連絡通路 |
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新宿副都心 新宿住友ンビル、三井ビル別館
地下連絡通路から地上に出ると中央通りで、左に新宿住友ンビル、右に三井ビル別館が見える。厳密に言うと、地上ではなく、旧淀橋浄水場の遺構を使っているため地上でありながら地下になっている。進む方向には新宿西口広場行き地下道の暗い入口が開いている。 |
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新宿西口広場行き地下道 |
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新宿西口広場行き地下道
左手に旧朝日生命ビルを再開発して出来たコクーンタワーの入口があり、そこから地上に出る。 |
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新宿西口 コクーンタワー
朝日生命本社跡に建てられたモード学園コクーンタワーが異彩を放つ。コクーンとは繭のことである。 |
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新宿西口 駅前風景
中央通りを進むと正面に小田急百貨店が壁になっている。左手にはビックカメラが入っている小田急ハルクがあり、そこから小滝橋通りに沿って新宿西口駅がある。南の甲州街道の地下に大江戸線の新宿駅があり、京王百貨店沿いに曲がって都庁前に向かう。当初大江戸線は東京環状線として命名しようとしたが、都庁前で乗り換えなければならず、環状線ではない、との石原都知事からの批判などが出て、大江戸線になった経緯がある。 |
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都営 大江戸線 新宿西口駅
小田急ハルク前の入口で、表示は新宿駅だが、都営大江戸線としては新宿西口駅である。 |
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青梅街道 新宿大ガード西交差点
新宿大ガード西交差点を渡ると小滝橋通りで、北上する。 |
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小滝橋通りを北上
様々な大衆向け飲食店が並び、下町的雰囲気の通りである。 |
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小滝橋通り 北新宿百人町交差点で右折、職安通りへ |
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職安通り 新宿公共職業安定所
JR山手線のガード下を通り過ぎると、右側に新宿職安(ハローワーク新宿)が見える。 |
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職安通り コリアンタウン
タイトルは新大久保グルメマップだが、現在地のハローワーク新宿から職安通り沿いの朝鮮料理店の案内図である。 |
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職安通り コリアンタウン
北新宿百人町の交差点から東新宿駅まではkoreanTown。行きかう人の会話は朝鮮語、町はハングルの合間に日本語が表示され、異様な雰囲気である。 |
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職安通り コリアンタウン
交差点からすぐに見える神社である。 |
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職安通り 稲荷鬼王神社(西大久保富士)
江戸時代から豆腐を備えれば、湿疹・腫れ物に特効があるとされた。邪鬼の頭上に手水鉢をのせた珍しい水鉢がある。本殿左奥の富士塚は昭和43年の社務所再建の際に分けられて現在は2つの山にわけて間の参道を富士山の胎内に通じる道に見立てている。 |
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職安通り 稲荷鬼王神社(西大久保富士)
拝殿の後ろに富士塚があり、見た後職安通りに戻る。新宿周辺には富士塚が多くあり、例えば青梅街道沿いの成子天神社には見事な富士塚がある。 |
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職安通り 稲荷鬼王神社(西大久保富士) 富士塚 |
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職安通り 稲荷鬼王神社(西大久保富士) 富士塚 |
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職安通り 稲荷鬼王神社(西大久保富士) 富士塚
新宿七丁目交差点で東西に大江戸線、南北に副都心線の東新宿駅が交差する。 |
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都営 大江戸線 東新宿駅 |
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職安通り 抜弁天交差点
職安通りは分岐して直進、右に分れた道路は余丁町通りとなって新宿線曙駅で靖国通りと合流する。分岐点には抜弁天がある。 |
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職安通り 抜弁天 |
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職安通り 抜弁天 |
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職安通り 抜弁天
一、由来
白河天皇の御代応徳三年(一〇八六年)鎮守府将軍・源義家公は、後三年の役で奥州征伐の途上この地に立ち寄り、遠く富士を望み安芸の厳島神社に勝利を祈願した。義家は奥州鎮定後その御礼に神社を建て、市杵島姫命を祀ったのが当厳嶋神社の始めと伝えられている。(豊多摩郡誌参照)
二、江戸時代
参道は南北に通り抜けでき、また苦難を切り抜けた由来から、抜弁天として庶民から信仰され、江戸六弁天の一つに数えられている。また山の手七福神を構成する弁財天でもある。
江戸幕府の地誌 大久保絵図(安政四年)には、別当二尊院・抜弁天と記載され、また他の絵図にはここに稲荷神社があったことも示されている。
徳川綱吉将軍の「生類憐みの令」によりこの附近に二万五千坪の犬小屋が設けられていた。 |
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職安通り 大久保の犬御用屋敷跡
第八機動隊庁舎の先の交差点の電柱の後に立っており、分かりにくい場所にある。
厳島神社(抜弁天)の東側一帯(約一万坪)および余丁町小学校と警視庁第八機動隊を含む一帯(約一万三千坪)は、江戸時代に設けられた犬御用屋敷の跡である。
五代将軍徳川綱吉は、男子徳松の死後世嗣にめぐまれず、これを前世の殺生によるものと深く悔い、貞享四年(一六八七)生類憐みの令を発し、生物の殺生をかたく禁じた。特に綱吉が戌年生まれであったため犬を重視したという。
これに伴い元禄八年(一六九五)飼い主のいない犬を収容するため、四谷(千駄ヶ谷村、天龍寺の西)・大久保・中野(中野区役所一帯、旧囲町)の三ケ所に犬御用屋敷を設置した。
大久保の犬御用屋敷は、元禄八年五月二十五日に、四谷の犬屋敷とともに落成したもので、収容された犬は十万匹にのぼったと伝えられる。しかし次第に手狭になり、順次中野の犬御用屋敷にその役割を移し、元禄十年(一六九七)十一月に閉鎖され、跡地は武家屋敷となった。 |
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都営 大江戸線 若松河田駅 |