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不忍通り 団子坂下交差点で右折、都道 神田白山線へ 不忍通り 団子坂下交差点で右折、都道 神田白山線へ 

往路のコースを戻って谷中霊園を経て、言問通りに向かう。
都道 神田白山線 谷中小学校 都道 神田白山線 谷中小学校 

往路では何かの公民館だろうと思っていたが、よく見ると谷中小学校であった。
東西めぐりん #12 谷中小学校 東西めぐりん #12 谷中小学校 
都道 神田白山線 全生庵 都道 神田白山線 全生庵 
都道 神田白山線 全生庵 山岡鉄舟 墓 都道 神田白山線 全生庵 山岡鉄舟 墓
 


 江戸開城の功労者で宮内省御用掛を務めた鉄舟は、天保七年(一八三六)六月十日幕臣小野朝右衛門の五男として、江戸本所に生まれた。通称は鉄太郎、諱は高歩、字は曠野、猛虎、鉄舟、一楽斎は号である・父の飛騨郡代在任中、高山で井上清虎に一刀流を学んだ。嘉永五年(一八五二)江戸に戻り槍術の師山岡静山の婿養子となって山岡家を嗣いだ。幕末の動乱の中で東征軍の東下に対し、駿府で西郷隆盛と会見し、勝海舟と協力して江戸無血開城を実現させた。明治維新後は天皇の側近として宮内大書記官や宮内小輔などを歴任した。明治二十一年(一八八八)七月十九日五十三歳で死去した。

幕末三舟の高橋泥舟は義兄に当たる。
都道 神田白山線 全生庵 三遊亭円朝 墓 都道 神田白山線 全生庵 三遊亭円朝 墓 

 初代三遊亭円朝は、通称出淵次郎吉といい、天保十年(一八三九)四月一日音曲師橘屋円太郎(出淵長蔵)の長男として江戸湯島切通町に生まれた。二代目三遊亭円生の門人となり、安政二年(一八五五)十六歳で真打 ちとなる。芝居噺で人気を博し「真景累ケ淵」や「怪談牡丹燈籠」「塩原 多助一代記」などを創作した。本業の話芸以外にも點茶、華道、聞香、和 歌、俳句、書画など和敬清寂の道に精通していた。建築、作庭にも秀で、 自らの設計監督によって内藤新宿では、数奇屋造の家屋や茶室、更に新宿御苑を借景とした百坪余の枯山水の平庭を完成させた実績もある。また、臨済禅の修行においても、山岡鉄舟や由利滴水の指導の下に参禅し、難しい公案を喝破して居士号を授けられた。更に書画古美術品に対する鑑識眼は極めて高く、毎年円朝忌を中心に円朝の収集した幽霊画が公開されている。明治三十三年(一九〇〇)八月十一日六十二歳で死去した。墓石には、山岡鉄舟の筆により「三遊亭円朝無舌居士」とある。
都道 神田白山線 全生庵 山岡鐡舟居士之賛 都道 神田白山線 全生庵 山岡鐡舟居士之賛  

 鐵舟と交流のあった実業家平沼専蔵によって明治二十三年に建てられた碑で、上部に有栖川宮熾仁親王の篆書体で「山岡鐡舟居士之賛」と題され、碑文には浄土宗初代管長の鵜飼徹定による詩文が、勝海舟の書によって刻まれている。
 剣は一刀流を極めて無刀流を開き、禅は天竜寺滴水和尚に受け、書は弘法大師入木道の伝統を継いだ、剣・禅・書の大家である鐵舟を讃える碑であり、その才質の比類なきことを伝え、国を思う心の深いことを記す。鐵舟が在家の仏教者であったことから維摩居士に比されている字句も見える。

山岡鉄舟、三遊亭円朝の墓は探したが分からなかった。右手奥の碑は三遊亭圓朝翁碑である。
都道 神田白山線 全生庵 山岡鐡舟居士之賛 都道 神田白山線 全生庵 山岡鐡舟居士之賛 
都道 神田白山線 全生庵 三遊亭圓朝翁碑 都道 神田白山線 全生庵 三遊亭圓朝翁碑 

 明治三十九年、圓朝七回忌に際して建てられた追悼碑で、生前愛顧を受けていた明治の元老井上馨侯爵の書による。
碑文に「挂剣」(死者に対し信を守ることのたとえ)と刻まれていることからも、二人の交情が一方ならぬものであったことがうかがわれる。
都道 神田白山線 全生庵 都道 神田白山線 全生庵 

門の右手に山岡鐡舟居士之賛の碑がある。
東西めぐりん #13 三崎坂上 東西めぐりん #13 三崎坂上 
東西めぐりん #14 谷中霊園入口 東西めぐりん #14 谷中霊園入口 
都道 神田白山線 上野桜木交差点で右折、言問通りへ 都道 神田白山線 上野桜木交差点で右折、言問通りへ 
東西めぐりん #15 旧吉田屋酒店 東西めぐりん #15 旧吉田屋酒店
 
言問通り 谷中六丁目交差点 言問通り 谷中六丁目交差点 

往路では、左から出てきて言問通りに出た。
言問通り 花屋盛香園前交差点で左折、動物園通りへ 言問通り 花屋盛香園前交差点で左折、動物園通りへ 

車一台やっとの一方通行の小路である。台東区役所で貰った地図でもどこで左折するかはっきりせず、行き過ぎて地元の人に聞いて戻った。交差点名はない。
東西めぐりん #16 池之端四丁目 東西めぐりん #16 池之端四丁目 

上野高校のグランドのコンクリート壁に沿ってバス停がある。
動物園通り 水月ホテル 鴎外荘 動物園通り 水月ホテル 鴎外荘 

水月荘ホテル鴎外荘の中にある。明治22年に最初の妻登志子と新婚生活を送り、翌年離婚して千駄木に移り住むまでこの地で暮らした。処女作の「舞姫」はここで書かれた。

4年前のイベントで来た時は、ホテルに自由に入って中の旧居を見物することが出来た。今は入口に係員がいて、食事をする場合は中に入れることになっている。

後日(4ヶ月後)谷根千巡りをしていた時、係員もおらず、旧居を撮影することが出来た。
東西めぐりん #17 鴎外旧居跡 東西めぐりん #17 鴎外旧居跡 
動物園通り 水月ホテル 鴎外荘 動物園通り 水月ホテル 鴎外荘 

 森鴎外は文久二年(一八六二)正月十九日、石見国津和野藩典医森静男の長男として生まれた。本名を林太郎という。
 明治二十二年(一八八九)三月九日、海軍中将赤松則良の長女登志子と結婚し、その夏に根岸からこの地(下谷区上野花園町十一番地)に移り住んだ。この家は、現在でもホテルの中庭に残されている。
 同年八月に『国民之友』夏季附録として、『於母影』を発表。十月二十五日に文学評論『しがらみ草子』を創刊し、良く二十三年一月には処女作『舞姫』を『国民之友』に発表するなど、当地で初期の文学活動を行った。一方、陸軍二等軍医正に就任し、陸軍軍医学校教官としても活躍した。
 しかし、家庭的には恵まれず、長男於莵が生まれた二十三年九月に登志子と離婚し、翌十月、本郷区駒込千駄木町五十七番地に転居していった。
動物園通り 水月ホテル 鴎外荘 動物園通り 水月ホテル 鴎外荘 


 
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