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秋葉原駅(電気街口)前で右折、中央通りへ 秋葉原駅(電気街口)前で右折、中央通りへ 
中央通り 万世橋交差点 中央通り 万世橋交差点 

この交差点から中央通りは国道17号となる。
中央通り 神田川に架かる万世橋 中央通り 神田川に架かる万世橋 

橋を渡った左のビルは「肉の万世」本店で、写真には写ってないがその反対側に閉館され、大宮に移転された交通博物館があった。

 この橋を万世橋といいます。はじめはこの場所には橋がなく、約一五〇メートル上流に筋違倚門に附属する橋がありました。明治五年(一八七二)に門が解体されたとき、不要となった枡形石垣を転用して、門の跡に東京最初の石橋が架けられ、時の東京府知事大久保一翁により万世橋と命名されました。しかし一般には、半円形の二つの通船路の川面に映るさまが目鏡のようなので、目鏡橋の愛称で呼ばれました。
中央通り 須田町交差点で靖国通りを渡る 中央通り 須田町交差点で靖国通りを渡る 
中央通り 神田鍛冶町三丁目 町名由来 中央通り 神田鍛冶町三丁目 町名由来 

神田祭で鳶職が着る半纏の形をしている。

 JR神田駅周辺には、「鍛冶」という名を冠する町名が三つ存在します。そのうち、鍛冶町一丁目と鍛冶町二丁目は、江戸時代から「鍛冶」が付く町名でしたが、ここ神田鍛冶町三丁目は「鍋町」と呼ばれた町でした。
 この界隈が鍋町と呼ばれていた理由は、江戸幕府の御用鋳物師をつとめていた、椎名山城が屋敷を構えていたためと伝えられています。鋳物師とは、鍋や釜をつくる職人のことです。ほかに御腰物金貝師や御印判師なども住んでいました。
 鍋町に住んでいたのは、このような御用職人ばかりではありません。文政七年(1824)の「江戸買物独案内」によれば、紅や白粉などの化粧品、傘、菓子、釘や打物などを扱う各種の問屋をはじめ、馬具や武具をつくる職人まで店を構えて住んでいたことがわかります。江戸時代、この界隈は鍋のような日用品から馬貝や武器まで、多種多様な商品がそろう町でした。
 明治のはじめ、隣接するいくつかの横町を含めて鍋町は広がりました。明治六年(1873)、一部が黒門町に編入され、さらに昭和八年(1933)、鍋町は鍛冶町三丁目と改称し、一部が鍛冶町二丁目になりました.昭和二十二年(1947)には町名に「神田」が付き、昭和四十一年(1966)に実施された住居表示で一部は内神田三丁目に編入されました。これを受けて、地域の人々は町会の名称を「神田鍛冶三会」と改め、今日にいたっているのです。
中央通り 神田鍛冶町三丁目 町名由来 中央通り 神田鍛冶町三丁目 町名由来 
JR 京浜東北線・根岸線 神田駅 JR 京浜東北線・根岸線 神田駅 
中央通り 今川橋交差点で右折、神田金物通りへ 中央通り 今川橋交差点で右折、神田金物通りへ 
神田金物通り 神田駅南口交差点でJR高架下を進む 神田金物通り 神田駅南口交差点でJR高架下を進む 
神田金物通り 神田駅南口交差点 鍛冶町一丁目 町名由来 神田金物通り 神田駅南口交差点 鍛冶町一丁目 町名由来 
神田金物通り 神田駅南口交差点 鍛冶町一丁目 町名由来 神田金物通り 神田駅南口交差点 鍛冶町一丁目 町名由来 

 江戸時代初期の慶長八年(1603)、幕府は江戸の町割(区画整理)を実施しました。このとき。新たに誕生した町の一つが鍛冶町です、新しい町名は、すぐに江戸っ子の間ても定着したようで、明暦三年(1657)の『新添江戸之図』や『寛文新板江戸絵図』でも「かち町」、あるいは「かぢて」という町名が見受けられます。
 ちなみに「鍛冶」という名は、町が生まれた当初、江戸幕府お抱えの鍛冶方棟梁だった高井伊織が、この地を幕府より拝領して屋敷を構えたことに由来するとされます。高井家は、相模・武蔵・安房・上総・下総・常陸・上野・下野の「関八州」の鍛冶頭を務め、その配下にある数多くの鍛冶職人たちもこの地に集まり、住むようになりました。
 江戸時代に刊行され、大名や旗本の氏名・系図・家紋・御用達町人の氏名などが記された『武鑑』には町内の住人として、文化年間(1804〜1818)だけでも、高井家をはじめ、金属加工を生業とする職人頭の名前が多く記録されています。
 ほかにも、鍛冶に関連した仕事をする御用職人が多かったようで、文政七年(1824)の『江戸買物独案内』には、刃物やくぎなどを扱う卸売業者がいたことも記されています。
 鍛冶町は、江戸時代の武士や庶民にとって必要不可欠な金属製品を提供し、日常生活をささえ続けた町だったのです。
神田金物通り 竜閑橋交差点で左折、外堀通りへ 神田金物通り 竜閑橋交差点で左折、外堀通りへ 
神田金物通り 竜閑橋交差点で左折、外堀通りへ 神田金物通り 竜閑橋交差点で左折、外堀通りへ 
外堀通り 鎌倉橋交差点で左折、錦町有楽町線(都道402号)へ 外堀通り 鎌倉橋交差点で左折、錦町有楽町線(都道402号)へ 
錦町有楽町線(都道402号) 日本橋川に架かる鎌倉橋 錦町有楽町線(都道402号) 日本橋川に架かる鎌倉橋 
鎌倉橋 まちの記録 「1944年 日本本土市街地への空襲が始まる」 鎌倉橋 まちの記録 「1944年 日本本土市街地への空襲が始まる」 
鎌倉橋 まちの記録 「1944年 日本本土市街地への空襲が始まる」 鎌倉橋 まちの記録 「1944年 日本本土市街地への空襲が始まる」 

鎌倉橋欄干には、1944年11月の米軍による爆撃と機銃掃射の際に受けた銃弾の跡が大小30個ほどあり、戦争の恐ろしさを今に伝えている。

八王子の甲州街道大和田橋にも焼夷弾の弾痕が残されている。
錦町有楽町線(都道402号) 東京サンケイビル 赤いオブジェ 錦町有楽町線(都道402号) 東京サンケイビル 赤いオブジェ 
錦町有楽町線(都道402号) 逓信総合博物館(ていぱーく)  錦町有楽町線(都道402号) 逓信総合博物館(ていぱーく) 

東京サンケイビルの向かいにある。
錦町有楽町線(都道402号) 東京サンケイビル前交差点で千代田区道104号を渡る 錦町有楽町線(都道402号) 東京サンケイビル前交差点で千代田区道104号を渡る 

右に東京サンケイビル、左に逓信総合博物館がある。千代田区の区道104号は右折すると日比谷通りとの交差点で読売新聞社本社があり、更に進むと平将門の首塚を経て内堀通りに至る。道路の通称はなく、各交差点も名称がないので、イベントではよく利用するが説明に困る道路である。
大名小路(都道402号)を南下 大名小路(都道402号)を南下 

どこからが大名小路というのか分からないが、丸の内界隈であることは確実である。
大名小路(都道402号) 大手町駅前交差点で晴海通り(国道1号)を渡る 大名小路(都道402号) 大手町駅前交差点で晴海通り(国道1号)を渡る 
大名小路(都道402号) 大手町駅前交差点で晴海通り(国道1号)を渡る 大名小路(都道402号) 大手町駅前交差点で晴海通り(国道1号)を渡る 
大名小路(都道402号) 新丸の内ビル 大名小路(都道402号) 新丸の内ビル 
大名小路(都道402号) 丸の内北口交差点から見た東京駅 大名小路(都道402号) 丸の内北口交差点から見た東京駅 

東京駅の丸の内北口のドームである。以前のドームに比べ丸みを帯びたが、低くなったように感じられる。
丸の内北口交差点から見た新丸ビル、丸ビル 丸の内北口交差点から見た新丸ビル、丸ビル 

手前(右側)が新丸ビル、奥が丸ビルである。
改築中の東京駅 丸の内北口風景 改築中の東京駅 丸の内北口風景 

右奥に丸の内北口改札口が見える。天井には防護幕が、通路沿いには工事用フェンスが張り巡らされて進捗状況は分からない。
JR 京浜東北線・根岸線 東京駅(丸の内北口) JR 京浜東北線・根岸線 東京駅(丸の内北口) 



 
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