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上野公園(上野動物園〜大噴水前広場〜上野東照宮)

【関連サイト】   山手線 内回りH2009
東京、横浜の桜並木探訪 4部作H2304(上野東照宮〜桜並木〜上野駅)


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上野公園 大噴水前広場で演技する大道芸者 上野公園 大噴水前広場で演技する大道芸者 

上野公園では指定された場所で、所定の幟を掲げながら大道芸を行うことができる。詳細は知らないが、大噴水前公園広場、五條天神社前広場、摺鉢山古墳前で見たことがある。
上野公園 上野動物園 正門 上野公園 上野動物園 正門 
上野公園 上野動物園 正門 上野公園 上野動物園 正門 

パンダが発情期に入ったため公開中止が掲示されている。中止の理由は日本語は「ペアリング」と曖昧な表現だが、英文は交尾と明示している。
上野公園 大噴水前広場 小松宮彰仁親王銅像 上野公園 大噴水前広場 小松宮彰仁親王銅像 

 彰仁親王は伏見宮邦家親王の第八王子。安政五年(一八五八)京都仁和寺に入って純仁法親王と称し、慶応三年(一八六七)勅命により二十二歳で還俗、東伏見宮嘉彰親王と改称した。同四年一月の烏羽・伏見の戦に、征東大将軍として参戦。ついで会津征討越後口総督となり、戊辰戦争に従軍した。
 明治十年五月、西南戦争の負傷者救護団体として、博愛社が創立されると、九月その総長に就任した。同十五年には、小松宮彰仁親王と改称。同二十年、博愛社が日本赤十字社と改名すると、総裁として赤十字活動の発展に貢献した。同三十六年一月十八日、五十八歳で没。
 銅像は明治四十五年二月に建てられ、同三月十八日、除幕式が挙行された。作者は文展審査員の大熊氏廣。『下谷区史』は当地に建てた理由について、寛永寺最後の門跡・輪王寺宮公現法親王(後の北白川宮能久親王)の兄宮であったことに因んだのだろうと推察している。
上野公園 大噴水前広場 小松宮彰仁親王銅像 上野公園 大噴水前広場 小松宮彰仁親王銅像 
上野公園 上野東照宮 大石鳥居 上野公園 上野東照宮 大石鳥居 

上野東照宮は、上野動物園の南側で、公園の西側に位置している。

この鳥居には、厩橋侍従酒井雅楽頭忠世の名前がある。あの下馬将軍の異名を持つ酒井候で、寛永10年の日付がある。
上野公園 上野東照宮 大石鳥居 上野公園 上野東照宮 大石鳥居 

「寛永十年癸酉四月十七日 厩橋侍従酒井雅楽頭源朝臣忠世」と刻まれている。
大老忠世の孫の忠清は下馬将軍と言われ、伊達騒動を裁いたことで有名。
上野公園 上野東照宮 表参道 上野公園 上野東照宮 表参道 
上野公園 上野東照宮 表参道 上野公園 上野東照宮 表参道 
 上野公園 上野東照宮 上野公園 上野東照宮 

 藤堂高虎(一五五六〜一六三〇)は上野山内の屋敷の中に、徳川家康を追慕し、家康を祭神とする宮祠を造った。これが上野東照宮の創建といわれている。あるいは寛永四年(一六二七)、宮祠を造営したのが創建ともいう。もとは「東照社」と称していたが、正保二年(一六四五)に宮号宣下があり、それ以後家康を祭る神社を東照宮と呼ぶようになった。
 現在の社殿は、慶安四年(一六五一)、三代将軍家光が大規模に造り替えたもので、数度の修理を経ているが、ほぼ当初の姿を今に伝える。社殿の構造は、手前より拝殿、幣殿、本殿からなり、その様式を権現造りという。社殿は都内でも代表的な江戸時代初期の権現造りで、華麗荘厳を極めている。
 唐門、透塀は社殿とともに構造、様式が優れており貴重であることから、参道人口の石造明神島居、唐門前に並ぶ銅燈龍四十八基と合わせて国の重要文化財に指定されている。
上野公園 上野東照宮 桜並木の表参道 上野公園 上野東照宮 桜並木の表参道 

ただ石灯篭が並んでいるだけの参道だが、花見シーズンには両側に屋台が並び、宴に興ずる人が多くて歩くのも大変である。
上野公園 上野東照宮 石灯籠 上野公園 上野東照宮 石灯籠 

200基以上あり、ほとんどが現在の社殿建築の慶安4年(1651年)に諸大名から奉納されたものである。
上野公園 上野東照宮 石灯籠 上野公園 上野東照宮 石灯籠 

奉納者の名前が刻まれている。この灯籠では、

慶安四暦 四月十七日 藤原
大久保加賀守 李任

大久保加賀守李任とは、幕府設立時の功臣で、大久保長安事件で失脚した小田原藩の大久保忠隣の嫡孫である。大久保一族はこの事件で連座、失脚したが、幼かった上に忠隣の功などにより唯一処罰されなかった。後に明石藩主を経て奉納時には唐津藩主、最終的には小田原藩主となった大久保忠職である。
上野公園 上野東照宮 表参道 東照宮五重塔 上野公園 上野東照宮 表参道 東照宮五重塔 

東照宮の五重塔は上野動物公園内にあり、そのため東京都所有となっている。
上野公園 上野東照宮 東照宮略記 上野公園 上野東照宮 東照宮略記 

祭神 徳川家康・徳川吉宗・徳川慶喜

縁起 元和二年二月見舞いのため駿府城にいた藤堂
   高虎と天海僧正は危篤の家康公の病床に招かれ
   三人一処に末永く魂鎮まるところを造って欲しいと
   遺言された。そこで高虎の家屋敷であるこの上野
   の山に寛永四年(一六二七年)に本宮を造営した。
   その後将軍家光はこの建物に満足出
   来ず慶安四年現在の社殿を造営
   替えし、江戸の象徴とした。

文化財 以下略
上野公園 上野東照宮 銅燈籠 上野公園 上野東照宮 銅燈籠 

 東照宮社殿唐門前と参道に、五十基の銅燈籠が並んでいる。燈籠は神事・法会を執行する時の浄火を目的とするもの。
照明用具てはない浄火は神事・仏事に使う清めた火。燈籠は上部から、宝珠・笠・火袋・中台・竿・基壇で構成されている。火袋は、八角・六角・四角などの形式に分かれ、各面には火口・円窓という窓を設けている。火袋下部の長い部分を竿といい、ここに銘文を刻むことが多い。
 これら銅燈籠は、諸国の大名が東照大権現霊前に奉納したもの。竿の部分には、寄進した大名の姓名と官職名・奉納年月日等が刻字されている。それによると、伊勢国(現三重県)津藩主藤堂高虎奉納の寛永五年(一六二八)銘一基をはじめ、慶安四年(一六五一)正月一七日奉納二基、同年四月一七日奉献四十五基、同五年孟夏十七日奉献二基となっている。慶安四年四月十七日は東照宮社殿落慶の日。その日の奉献数がもっとも多い。これら銅燈籠は、東照宮社殿とともに一括して、国の重要文化財に指定されている。
上野公園 上野東照宮 銅燈籠 上野公園 上野東照宮 銅燈籠 

東日本大震災があった平成23年の1か月後の4月に参拝したが、倒壊の危険があり、一帯は立入禁止となっていた。

寄進者名に伊賀少将藤堂高虎などの名前が刻まれた銅灯篭があるが、場所が変わったせいか見つけられなかった。
上野公園 上野東照宮  改修中の唐門 上野公園 上野東照宮  改修中の唐門 

唐門の写真を描いた大きな幕が掲げられている。本物はこれほどけばけばしくはなかった。
上野公園 上野東照宮 唐門 上野公園 上野東照宮 唐門 

日本には一つしかない金箔の唐門である。
扉には梅に亀甲の透彫、門柱には左甚五郎作昇竜(右)降竜の高彫、門の側面左右上部の松竹梅に錦鶏鳥の透彫など非常に精巧を極めたものである。
上野公園 上野東照宮 大石鳥居横に見える上野精養軒 上野公園 上野東照宮 大石鳥居横に見える上野精養軒 



 
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