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靖国通り 田安門交差点から靖国神社へ
恒例の桜祭りが週末から10日間に亘り、表参道を中心に行われる。 |
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靖国神社 大鳥居(第一鳥居) 桜祭りの屋台設営で大混雑の表参道
幅広い表参道もトラックが駐車し、屋台設営のための作業で人一人がかろうじて歩けるほどに狭くなっている。設営作業の整理をする係員もいないため、歩行者は危険である。 |
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靖国神社 大鳥居(第一鳥居) 桜祭りの屋台設営で大混雑の表参道
大鳥居を過ぎると右の木立の中に日露戦争の悲劇である常陸丸殉難記念碑や、シベリア出征の田中支隊忠魂碑などが建てられている。 |
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靖国神社 表参道 大村益次郎銅像
大村益次郎は文政七年(一八二四)周防国鋳銭司村(現、山□県山口市)の医者の家に生まれ、はじめ村田蔵六といった。広瀬淡窓について儒学を、緒方沢庵について蘭学を学び、嘉永の初め宇和島藩に仕えてはじめて西洋式軍艦を設計建造。さらに江戸に出て私塾「鳩居堂」を開き、幕府の講武所教授等を勤め蘭学者、蘭方医、兵学者としてその名を高めた。ついで桂小五郎の推薦により長州藩に仕え、慶応二年、第二次長州征伐の折に、石州□の戦を指揮して幕府軍を破り戦術家として脚光を浴びた。戊辰戦争では新政府の軍務局判事に任じられ、大総督府に参じ東北の乱を平定。ついで兵部大輔に任じられ、建議して軍制を洋式に改める事を主唱したため攘夷主義者を刺激し、京都出張中の明治二年(一八六九)九月、不満士族に襲われて重傷を被り、同年十一月五日大阪にて歿した。四十六歳。 明治二年八月、戊辰戦争の戦歿者を祀る東京招魂社(現、靖國神社)の創建に際し、社地選定のため同月十二日、この地を視察したことも記録に見え、靖國神社創建者としての功績は大きく、明治十五年、伯爵山田顕義らにより銅像の建立が発議され、宮内省から御下賜金の御沙汰もあり、彫刻師大熊氏廣に塑型の製作が委嘱された。 大熊氏廣の帰朝後、漸く明治二十六年にいたりこの地にわが国最初の西洋式銅像が建立された。大熊はキヨソネの描いた大村益次郎の肖像画や遺族らに取材しながら製作にあたったという。陣羽織をつけ左手に双眼鏡をもち、東北の方を望む姿は、上野東叡山にたてこもる彰義隊討伐の時の様子と言われる。 |
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靖国神社 表参道 外苑休憩所
第二鳥居前の土産物店で、小泉元首相以来、首相をテーマにした饅頭販売で有名である。 この土産物は自民党系と民主党系の2店が製造、販売しており、小泉元首相で味をしめた店は、その後の短命政権で在庫の山を築き、民主党政権下では石破、小泉進次郎でしのいでいた。
民主党系の店は鳩ポッポ人気で売れるかと思ったが、歴代の不評でさっぱり売れなかった。
現在は今までなかったが土産物の上に包装紙の一覧が飾られていた。安倍首相のオンパレードで、良くもこれほど考えるものと思うが、何故か人気芸人の有吉が加わっていた。 |
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靖国神社 表参道 第二鳥居前 境内案内図 |
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靖国神社 表参道 第二鳥居、神門 |
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靖国神社 表参道 神門 |
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靖国神社 表参道 靖国の桜 案内
東京に春を告げる「靖國の桜」
靖國神社と桜の縁は古く、明治三年、木戸孝允公によって神苑に染井吉野が植えられたのが始まリと伝えられています。
現在、靖國神社の境内には、染井吉野をはじめ、山桜・寒桜・富士桜・緋寒桜・枝垂桜・ウコン桜など約六百本の桜があります。
その中には、東京の桜の開花を観測している標本木が含まれており、標本木に五、六輪の花が咲くと気象台から東京の桜の開花が発表されます。 |
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靖国神社 能楽堂前 桜の標本木
桜の標本木
この桜は、東京管区気象台が指定した東京地方の桜「ソメイヨシノ」の標本木です。
前日に五輪の開花があったとかで開花宣言が出された。しかし、どこに咲いているのかさっぱり分からなかった。 |
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靖国神社 中門鳥居、拝殿 |
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靖国神社 拝殿 |
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靖国神社 南門
3週間ほど前に靖国神社を参拝したが、大鳥居方向に歩いている時に南門横奥に梅林があると知ったので立ち寄ることにした。 |
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靖国神社 南門から拝殿を囲む柵沿いに西進 |
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靖国神社 南西角にある梅林
芝生に梅が植えられている一画がある。梅林というほどには梅の木はない。 |
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靖国神社 梅林 守護憲兵之碑
守護憲兵之碑
憲兵の任務は監軍護法に存したが、大東亜戦争中は更に占領地の行政に或は現地民族の独立指導に至誠を尽した。
又昭和二十年三月十日の東京大空襲の戦火が靖國の神域を襲うや神殿を挺身護持したのも憲兵であった。然しその陰には異国の戦線に散華した幾百万の英霊と、いわれなき罪に問われ非命に斃れた同僚憲友があったことを忘れてはならない。
靖國神社御創立百年に当る昭和四十四年四月六日この功績を顕彰し後世に伝承するため全国憲友会連合会より当社に同碑が奉納され、更に同会創立四十周年の平成五年四月八日にはその記念事業として会員一同、建立当時を振り返り憲友幾万の心の碑であるこの碑が永久に護持され且つ靖國の御社頭の永遠なる御安泰を願って真心籠る多額の基金が寄せられた。 |
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靖国神社 梅林 守護憲兵之碑 |
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靖国神社 梅林 海軍経理学校正門敷石
海軍経理学校正門敷石
海軍経理學校の沿革
明治七年十月、芝山内夭神谷に設けられた海軍会計學舎は幾度かその名稱を変え明治四十年に海軍経理學校となった。
この間校舎も数度位置を変えて、明治二十一年に築地の松平樂翁公邸の浴恩園跡に移り、更に昭和七年同じ築地の隅田川河畔(現在の勝鬨橋右岸)に移築された。
昭和二十年九月、七十一年間の歴史を閉じるまでの同校出身者は一萬名を超え海軍主計科の基幹要員として海軍戦力の一翼を担い輝かしい功績を挙げた。その間諸戦役事変に際會して國に殉じた者も数多く、又軍務を離れても各界各方面で活躍し我が國の興隆發展に多大の貢献をしている。 |
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靖国神社 梅林 海軍経理学校正門敷石 |