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四ツ谷駅〜四谷総鎮守 須賀神社〜於岩稲荷

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歴史点描 江戸風景 於岩稲荷、於岩稲荷田宮神社
東海道四谷怪談 於岩稲荷H260529


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【撮影記録】
平成27年 4月 16日 晴れ
10:15〜11:20 5,700歩(歩行距離 概算 4.0km 地図上 3.7km)
中央線快速 四ツ谷駅〜新宿駅
駅数 2、営業距離 3.7km

腰痛も軽減してきたので、単純に新宿通りを歩いて四ツ谷駅から新宿駅を歩くのではなく、四ツ谷駅から四谷総鎮守の須賀神社を経て於岩稲荷に立ち寄ることとした。須賀神社は10年前のイベントで立ち寄っただけで、場所も朧気であり、事前の地図での調べでも少し迷った。
四ツ谷駅(赤坂口)から見た四谷見附交差点 四ツ谷駅(赤坂口)から見た四谷見附交差点 

右側には、地上に出た丸ノ内線が再び地下に戻る風景が見える。
外堀通り 四谷見附交差点で左折、新宿通りへ 外堀通り 四谷見附交差点で左折、新宿通りへ 
新宿通り 四谷小学校前交差点 新宿通り 四谷小学校前交差点 
新宿通り 四谷二丁目交差点で左折、東福院坂(天王坂)へ 新宿通り 四谷二丁目交差点で左折、東福院坂(天王坂)へ 

交差点手前にローソンストア100があり、目標としてはこちらの方が分かりやすい。但し、この業態は収益悪化で今年度(平成27年)末で1/4が閉店される予定で、この店も存続するかどうかは不明である。
 東福院坂(天王坂)を下る 東福院坂(天王坂)を下る 

交差点を曲がるとすぐに須賀神社参道の表示があり、行路が正しいことが確認できる。
 東福院坂(天王坂)を下る 東福院坂(天王坂)を下る 
東福院坂(天王坂) 坂下で右折 東福院坂(天王坂) 坂下で右折 

坂下の交差点で直進すると階段があり、両脇に須賀神社の赤い幟が立ち並ぶ。

一見直進すべきと思わせるが、事前の地図での調べでは右折して妙行寺経由となっているのでそれに従う。結果としてこれが正解だった。
東福院坂(天王坂) 坂下で右折 東福院坂(天王坂) 坂下で右折 

東福院坂(天王坂)

 坂の途中にある阿祥山東福院に因んでこう呼ばれた。別名の天王坂は、明治以前の須賀神社が牛頭天王社と称していたためこの辺りが天王横町と呼ばれていたことによる。
東福院坂(天王坂) 坂下からの階段を上ると駐車場へ 東福院坂(天王坂) 坂下からの階段を上ると駐車場へ 

須賀神社の境内に着くとこの階段を上ると駐車場に出る、ということが分かるが、立派な階段であり、石碑もあるのでこちらに向かいたくなる。
突き当りの妙行寺前で左折、階段を上る 突き当りの妙行寺前で左折、階段を上る 
突き当りの妙行寺前で左折、階段を上る 突き当りの妙行寺前で左折、階段を上る 
妙行寺 縁起 妙行寺 縁起 

 抑、当山は凡そ五百年前、後奈良天王の御宇江戸城際に開闢草創せる、真言宗寺院なりしが、時の往持頻伽法印、身延山第十一世行学院日朝上人の教化を受け、寛正の頃、日蓮宗に帰属せしものなり。その後、西紀一四五七年長禄の年、本立院日純、開山となり基礎を確立す。慶長十九年に於て徳川氏開府の砌、江戸城域拡張に従い、朱印内寺構への為現在地に移り今に至るまで伝統を保てるものなり。当山に祀る稲荷尊は身延山開創の草分分体にして草分稲荷尊と称し、日朝上人と並んで地民の鑽仰厚かりしという。又、本堂に安置し奉る日朝上人の御尊像は頻伽法印報恩の為、彫刻せしものなりという。
 当山八世玉峯院日静は、身延山第三十六世潮師法縁々祖六牙院日潮上人と親交深く、当山に残れる書簡により信仰の交流細やかに布教者魂意気投合せりという。とくに日静は法華経壹萬部・読踊の功徳を以って豆塚を築き、当時流行せる疱瘡をしずめたことにより、上人の徳を慕い諸人の参詣、後を絶たざりしという。
 十代将軍家治の時、当山篤信伊藤氏の娘、側室として仕え、その縁により、一族、大奥の中搏凾フ役務につくもの多く、とくに興善院殿篤誉諦泰大禅尼の法号を授与された方は将軍家の信頼ことの外厚く、その縁により当山に赤門建立を許されたという。故に四谷麹町界隈に赤門寺として有名を馳せ、多くの外護丹精を受けたりしといわれる。その由縁は墓地及び顕彰供養塔に刻記し後世に伝へらるるなり。赤門に彫られし龍の彫刻は、当時、安永の名匠飛弾の甚五郎作と伝えられ、そのすばらしさは衆目をみはらせるものありいという。
 当山檀徒、瀬名貞雄は江戸の國学者として著書も多く「室町三礼記」「十二月故實」「関東補任記」「殿上故実附記」等を著し江戸の地理に詳しく太田南畝との瀬田問答は当山で行れしものという。
 当山は其後、関東大震災には微動だにせざりしが、今次大戦により、赤門、土蔵造りの本堂日朝堂、稲荷堂等、悉く烏有に帰し現在の本堂、客殿、庫裡は戦後建立せしものなり。
突き当りの妙行寺前で左折、階段を上る 突き当りの妙行寺前で左折、階段を上る 

さすがに色は褪せてきたが、立派な八重桜を見ながら階段を上ると右に鳥居がある。
四谷 総鎮守 須賀神社 四谷 総鎮守 須賀神社 
四谷 総鎮守 須賀神社 四谷 総鎮守 須賀神社 

境内には縁起などが書かれた案内は見当たらなかった。そのため、須賀神社のホームページから一部抜粋して以下に記す。

 今の須賀神社はもと稲荷神社でした。その稲荷神社は、往古より、今の赤坂、一ツ木村の鎮守で、清水谷に有ったのを、後寛永十一年に江戸城外堀普請のため、当地(現在地)を替地として拝領し、移し奉ったものと伝えられています。

 須佐之男命の鎮座の儀は、寛永十四年、島原の乱に日本橋大伝馬町の大名主馬込勘由と言う人が、幕府の命に依り、兵站伝馬のご用を勤め、その功績に依り、現在の四谷の中心一円の地を拝領したのを機会に、寛永二十年、神田明神社内に祀ってありました日本橋伝馬町の守護神(須佐之男命)を地元民の総発意で四谷に合祀し、御両社として祀る様になり、俗称四谷天王社と云い、明治維新まで親しまれて来ました。明治元年に須賀神社と改称され、明治五年に郷社に昇格、戦後は制度の改正により、旧社格は撤廃されました。
四谷 総鎮守 須賀神社の鳥居を出て右折 四谷 総鎮守 須賀神社の鳥居を出て右折 

鳥居の前に広い駐車場があり、東福院坂(天王坂)の坂下からの階段を上ってくると左奥の八重桜付近に出てくる。
須賀神社のフェンス沿いの道を西進 須賀神社のフェンス沿いの道を西進 
突き当りで左折 突き当りで左折 
突き当りの報恩寺で右折 突き当りの報恩寺で右折 

角の電柱に真新しい須賀神社への案内がある。
本性寺前の案内に従い右折 本性寺前の案内に従い右折 

電柱に「於岩稲荷 陽運寺」の案内がある。電柱の手前が本性寺、先が顕性寺である。

ほぼ一年前(平成26年)に逆方向から於岩稲荷に向ったが、電柱にはこのような案内はなく、場所が分かり難いことで有名であった。
於岩稲荷 陽運寺 山門 於岩稲荷 陽運寺 山門 

於岩稲荷には何回も来ているが、境内の色々な案内板は一新され、内容もオドロオドロしいお岩様から貞節で縁結びをするお岩様へ、とイメージチェンジが図られている。
於岩稲荷 陽運寺 お岩さまと縁結び 於岩稲荷 陽運寺 お岩さまと縁結び 

山門の左にあり、参道は狭い。

「東海道四谷怪談」でおなじみのお岩さん。
この怖いお岩さんが出てくる四谷怪談はじつは後世の人が創作した物語なのを知っていますか?
舞台であるここ、四谷は東海道ではないことからも後に作られた物語だということがわかります。
江戸時代に実在した女性「お岩」は家庭をとても大事にした貞淑な妻だったとも伝えられています。
このお岩さまを祀る陽運寺は、「えんむすび」の寺としても全国に知られています。
悪縁を切り、良縁を結ぶお岩さま。
厄除け、縁結び、芸道上達、また新たに出会いを望まれる方もぜひ、本堂からご参詣ください。
於岩稲荷 陽運寺 本堂 於岩稲荷 陽運寺 本堂 

江戸時代、文政八年七月歌舞伎戯作者四世鶴屋南北作「東海道四谷怪談」が世に喧伝され、於岩様庶民の畏敬を受け当山その由縁の所として現在に至ったが戦災に遭い協議の上本堂を栃木下野から薬師堂を移築再建した棟札には宝暦七年とある。於岩様の戒名は徳證院妙年日正大姉、墓は元鮫ヶ橋にあったが現在は移転し巣鴨新庚申塚にある。当堂内には於岩様御尊像奉祀され参拝者祈願の対象となり境内には由縁の井戸、再建記念碑等がある。
於岩稲荷 陽運寺 縁の井戸 於岩稲荷 陽運寺 縁の井戸 


お岩さま 縁の井戸

現在も御霊水として使われています。
於岩稲荷 陽運寺 水かけ福寿菩薩 於岩稲荷 陽運寺 水かけ福寿菩薩 

「於岩稲荷 水かけ福寿菩薩」

 お題目(南妙法蓮華経)を唱えながら、お水をおかけ下さい。
あなたの厄が除かれ、あなたに福寿(幸福)が訪ずれます。
於岩稲荷 陽運寺 お岩稲荷霊堂再建記念碑 於岩稲荷 陽運寺 お岩稲荷霊堂再建記念碑 
於岩稲荷 陽運寺 お岩稲荷霊堂再建記念碑 於岩稲荷 陽運寺 お岩稲荷霊堂再建記念碑 

由来の事

江戸時代、文政八年七月 歌舞伎作者 四世 鶴屋南北作
「東海道四谷怪談」が世に広まり、お岩様が庶民の畏敬を集めました。
この地にあったお岩様の霊堂が戦災に遭ったため栃木県沼和田から薬師堂を移築再建し当寺が開山されました。
境内にある泰山木の下にお岩様縁の祠があったと伝えられ陽運寺の起源とされています。
薬師堂の棟札には宝暦七年と記されており二五〇年以上の歴史のある建物です。
当堂内にはお岩様の立像が奉祀され、厄除け、ご縁事、芸能事に霊験があると多くの参拝者の信仰を集めています。境内にはお岩様由縁の井戸、再建記念碑等があります。
於岩稲荷田宮神社 於岩稲荷田宮神社 

於岩稲荷 陽運寺の斜め向かいにある。

 文化文政期に江戸文化は爛熟期に達し、いわゆる化政時代を出現させた。「東海道四谷怪談」の作者として有名な四代目鶴屋南北〔金井三災の門人で幼名源蔵、のち伊之助、文政十二年(一八二九)十一月二十七日歿〕も化政時代の著名人である。「東海道四谷怪談」の主人公田宮伊左衛門(南北の芝居では民谷伊右衛門)の妻お岩を祭ったお岩稲荷神社の旧地である。物語は文政十年(一八二七)十月名主茂八郎が町の伝説を集録して、町奉行に提出した「文政町方言上」にある伝説を脚色したものである。明治五年ごろお岩神社を田宮稲荷と改称し、火災で一時移転したが、昭和二十七年再びここに移転したものである。
於岩稲荷田宮神社 於岩稲荷田宮神社 

田宮稲荷神社跡

 田宮稲荷神社は、於岩稲荷と呼ばれ四谷左門町の御先手組同心田宮家の邸内にあった社です。初代田宮又左衛門の娘お岩(寛永一三年没)が信仰し、養子伊右衛門とともに家勢を再興したことから「お岩さんの稲荷」として次第に人々の信仰を集めたようです。
鶴屋南北の戯曲「東海道四谷怪談」が文政八年(一八二五)に初演されると更に多くの信仰を集めるようになります。戯曲は実在の人物からは二百年後の作品で、お岩夫婦も怪談話とは大きく異なり円満でした。稲荷社は明治一二年(一八七九)に火事で消失し、その際初代市川左団次の勧めで中央区新川に移転しました。しかし、その後も田宮家の住居いとして管理されており、昭和六年(一九三一)に指定されました。戦後、昭和二七年(一九五二)に四谷の旧地にも神社を再建し現在に至っています。



 
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