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JR 南武線/京王 京王線 分倍河原駅
【撮影記録】
平成25年 6月 29日 曇り 後 晴れ
9:55〜12:50(昼食 30分) 14,400歩 (概算 10.1km 地図上 8.9km)
南武線 分倍河原駅〜谷保駅〜立川駅
営業距離 6.7km 駅数 6
梅雨の長雨が続き歩けなかったが、天気予報では曇だが、晴れそうな雰囲気だ |
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JR 南武線 分倍河原駅 熱中症計は注意
現在時刻は9:55で、熱中症計は、温度は27.6℃、湿度は58%である。
天気予報では午前は曇りで正午過ぎから晴れてくるとのことで、熱中症に注意だった。少し蒸す気もするが曇っており、温度、湿度ともにこんなものかと思う。 |
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JR 分倍河原駅前風景
正面に府中東芝ビルがあり、その前がバスロータリー、中心に新田義貞の騎馬像がある。 |
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JR 分倍河原駅 ショッピングセンター MINANOを通り抜けて右折、鎌倉街道へ |
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JR 分倍河原駅 ショッピングセンター MINANOを通り抜けて右折、鎌倉街道へ |
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鎌倉街道 京王線ガード下を進む
分倍河原駅で南武線は東西に、京王線は南北に交差する。 |
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鎌倉街道 府中市 いきいきプラザ |
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鎌倉街道 分梅駐在所交差点で分梅通りを渡る |
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鎌倉街道 分梅駐在所交差点 「北条氏と新田氏の戦い」 |
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鎌倉街道 分梅駐在所交差点 「北条氏と新田氏の戦い」 |
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鎌倉街道 分梅駐在所交差点 「北条氏と新田氏の戦い」
建久3年(1192年)源頼朝が鎌倉に幕府を開き、その後北条氏が実権をにぎると、鎌倉街道の要衝として政治・軍事・交通の面で府中はこれまでに増し重要な地位をしめるようになった。
また、多摩川は北に対する防備線として、軍事上特に重要視されていた。武士の争乱の続く中で、元弘3年(1333年)上州(上野国)新田荘に倒幕の旗を揚げた。
新田義貞は5月16日分倍河原に北条泰家率いる幕府軍を急襲した。これが分倍河原の戦いである。多摩川をひかえた北の防衛線を破られた北条氏は、新田勢の進撃を防ぎきれず鎌倉に攻め込まれ、滅亡の道をたどった。 |
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鎌倉街道 分梅駐在所交差点 分梅の由来
分梅(ぶばい)は、現在の分梅町一・二・三・四・五丁目の一部(鎌倉街道=分梅通り沿い)に集落の中心があった村落です。この集落は本町に属しており、『新編武蔵風土記稿』(幕末の地誌)には「本町」の小名としてその名が見えます。分梅はもとハケ上の上分梅(八雲神社辺り)に集落の中心がありましたが、多摩川の流れが南に移ったあと分倍河原に進出したといわれています。古くは「分倍(陪)」や「分配」の字があてられ、「ぶんばい」と呼ばれていたこともありますが、近世以降には「分梅」が多用されています。 地名の起こりは、不明ですが、この地がしばしば多摩川の氾濫や土壌の関係から収穫が少ないために、口分田を倍に給した所であったという説があります。 |
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鎌倉街道 分梅駐在所交差点 分梅の由来 |
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分梅駐在所交差点で分梅通りを渡り、御猟場道へ
鎌倉街道は交差点で左折、分梅通りとも呼ばれて南下する。交差点を渡ると、道路は御猟場道(おかりばどう)となる。 |
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御猟場道を西進
御猟場道はマンションなどが建ち並ぶ普通の道路である。 |
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御猟場道 本宿一丁目交差点で右折、鎌倉街道(都道18号)へ |
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鎌倉街道(都道18号) 本宿トンネル
本宿一丁目交差点のすぐ右手にあるトンネルである。トンネルの北はずれで南武線の下を通る。 |
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本宿トンネルの途中で階段を上り、突き当りで左折、南武線沿いに西進 |
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JR 南武線 西府駅
平成21年の3月に開業した新駅で、多くの南武線の田舎然とした駅舎とは格段の差である。この駅が出来たタイミングで前回歩いた。
西府駅が出来るまでは分倍河原の次は甲州街道沿いの谷保駅だった。そのため、分倍河原駅のすぐ北を通る旧甲州街道を歩き、本宿町交差点で甲州街道に合流、西進した。 |
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JR 南武線 西府駅 |