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鎌倉街道 府中本町駅から下る
鎌倉街道は府中街道の府中本町駅入口交差点で分岐し、南武線、武蔵野線を跨いで府中本町駅前のバスターミナル広場を経て下っていく。 |
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鎌倉街道 府中本町駅から下る
正面に府中街道からの跨線橋がある。 |
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鎌倉街道 三小前交差点
交差点を渡った右側の木立が府中第三小学校である。 |
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鎌倉街道 税務署角交差点で右折、かえで通りへ |
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かえで通り 南武線踏切手前で左折 |
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JR 分倍河原駅前風景
左には片町公園があり、その前に新田義貞公像が、右にJRの分倍河原駅がある。 |
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JR 分倍河原駅前風景 新田義貞公之像 |
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JR 分倍河原駅 新田義貞公之像
この像は、新田義貞と北条泰家の軍勢が鎌倉幕府の興亡をかけて火花を散らした分倍河原合戦を題材に、武士の情熱と夢をモチーフとして制作したものである。
元弘三年(一三三三)五月八日、上州生品神社(群馬県新田町)の社前で鎌倉討幕の旗を上げた新田義貞は、越後・甲斐・信濃の同族軍等を糾合、翌九日には利根川を渡って武蔵国へ入り、千寿王(後の足利義詮)と合流し一路鎌倉を目指して南下した。一方、幕府軍は入間川で新田軍を阻止するため北上、同月十一日、両軍は小手指原(所沢市)で遭遇し合戦となった。合戦の勝敗は容易に決しないまま十二日の久米川の合戦につづき新田軍有利の中で、幕府軍は陣立てのため急ぎ府中の分倍河原まで退いた。
同月十五日未明、新田軍は多摩川突破を目指して武蔵国府中を攻め分倍河原において大いに戦ったが、泰家率いる幕府軍の逆襲にあって大敗を喫し、掘兼(狭山市)まで敗走した。この時、新田軍の手によって武蔵国分寺の伽藍は灰燼に帰してしまったといわれている。その夜、掘兼まで後退した焦燥の義貞のもとに相模の三浦義勝らが相模の国人衆を引き連れて参陣した。幕府の本拠地である相模の国人衆の加勢に意を強くした義貞は、翌十六日の未明に怒濤の如く分倍河原を急襲、前日の勝利におごり油断していた幕府軍は、武具を整える間もなく総崩れとなり、鎌倉の最後の防衛戦である多摩川は一気に破られ分倍河原合戦は新田軍の大勝利に終わった。多摩川を越えて鎌倉に進撃した新田軍は、鎌倉で激しい市街戦を展開し、終に百四十年余り続いた鎌倉幕府を滅亡させたのである。
こうした史実を通して市民の郷土史への理解を深めるとともに、これを後世に伝えるため、日本の中世史上重要な意義を持つ分倍河原合戦ゆかりのモニュメントを制作し、この地に設置するものである。
制作は、我が国彫刻界の重鎮で文化功労者・日本芸術院会員の富永直樹先生、題字は、府中市長吉野和男の揮毫による。
この「新田義貞公之像」が永くふるさと府中の歴史を伝え、市民の心に生きつづけることを願うものである。 |
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JR 分倍河原駅前 府中小唄ゆかりの地 分倍河原古戦場
ここは名高い分倍河原ヨ
道は鎌倉街道すじ
あれは新田と北条と
火花を散らした古戦場 |
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JR 分倍河原駅前 府中小唄ゆかりの地 分倍河原古戦場
京王線府中駅、分倍河原駅界隈の観光ルートを兼ねており、分倍河原古戦場となっているが、駅前に新田義貞像があるものの、古戦場は京王線の中河原駅近くである。 |
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JR 分倍河原駅 新田義貞公之像
像の後ろには以下の内容が記された銘板がある。
この像は、分倍河原合戦を題材に、武士の情熱と夢をモチーフとして創作したものである。
「分倍河原合戦」は、元弘三年(一三三三)五月十五日・十六日の両日に新田義貞と北条泰家の軍勢が鎌倉幕府の興亡をかけ分倍河原で火花を散らした天下分け目の合戦である。この合戦で勝利をおさめた新田軍は一気に鎌倉に攻め落とし、遂に百四十年余り続いた鎌倉幕府を滅亡させたのである。
こうした史実を通して市民の理解を深めるとともに、これを後世に伝えるため、分倍河原合戦にゆかりのモニュメントを制作し、この地に設置するものである。
制作は 我が国彫刻界の重鎮で、文化功労者・日本芸術院会員の富永直樹先生。題字は、府中市長吉野和男の揮毫による。
この「新田義貞公之像」が永くふるさと府中の歴史を伝え、市民の心に生きつづけることを願うものである。 |
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JR 南武線/京王 京王線 分倍河原駅
正面が京王京王線の、左に南武線の分倍河原駅改札口がある。
南武線立川方面のホームと、京王線の八王子方面のホームとは自動改札機で接続している。しかし、新宿方面に乗り換えるためには一旦写真の改札口での出入りが必要である。 |