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外堀通り 飯田橋交差点歩道橋から見た飯田橋駅 |
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外堀通り 石のモニュメントが続く神田川沿いを北上 |
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外堀通り トヨタ自動車 東京本社、後楽森ビル
手前の茶色のビルがトヨタ自動車東京本社出、後方の青いガラスのビルは後楽森ビルである。 |
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外堀通り 旧町名案内 市兵衛河岸
小石川橋北側の神田川(外堀)の河岸一帯で、水道橋から船河原橋までの河岸地である。
『江戸砂子』(享保17年・1732)に、牛込御門の外なり。岩瀬市兵衛の屋敷あるゆえにいうとある。この市兵衛から町名をとった。
昭和15年の改正で、市兵衛河岸を分けて、一部は小石川町1丁目に、一部は春日町1丁目に編入されて、残地がわずかに残った。
神田川の昌平橋との間を往復する客船の船着場であった。また荷物を岸に揚げる物揚場があった。東京砲兵工廠のあったころは、工廠用の貨物が揚げ下ろしされた。 |
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外堀通り 小石川橋交差点手前で神田川が分流、日本橋川に
日本橋川の上を走る首都高5号池袋線の高架も右に曲がる。 |
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外堀通り 小石川橋交差点 |
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外堀通り 神田川 市兵衛河岸 防災船着場
特に案内はないが、常盤橋にも同じ施設があり、そこには次のような案内板がある。
「この船着場は、大地震等災害時に陸上交通の補完施設として、河川舟運が有効に機能するよう、整備されたものです。」 と表記されている。江戸が水都だったことを思い出させる。 |
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外堀通り 市兵衛河岸
河岸とは、物資輸送のために水ぎわに作られた物揚場などの施設のことである。この河岸の名は、江戸時代の中頃まで、現在の後楽2−1−18あたりに岩瀬市兵衛の屋敷があったことによる。市兵衛河岸は、飯田橋駅近くの船河原橋から水道橋までの神田川沿いの一帯で、江戸切絵図にもこの名が見える。
この河岸は、明治8年から昭和8年まで現在の後楽園遊園地一帯にあった砲兵工廠の荷揚場としてにぎわった。明治時代、この河岸から早船といわれた客船が神田昌平橋まで往復していたこともあった。町名としての市兵衛河岸は、昭和39年の住居表示の施行により後楽1丁目となり、この名は消滅した。 |
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外堀通り 水道橋交差点で右折、白山通りへ |
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JR 総武線 水道橋駅 |
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外堀通り 水道橋から見た神田川
神田川がかなり下を流れているのが分かる。 |
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外堀通り 水道橋交差点から見た東京ドームシティ(旧 後楽園遊園地) |
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外堀通り 神田上水分水路
水道橋交差点から坂を上り始めた所にあるが、碑の説明はない。 |
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外堀通り 神田上水分水路
神田川の分水路をまとめたもので、下が北、右が西で高田馬場駅から馬喰町駅までの分水路が表示されている。 |
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外堀通り 神田上水懸樋(掛樋)跡
江戸時代、神田川に木製の樋を架け、神田上水の水を通し、神田、日本橋方面に給水していました。 明治三十四年(一九〇一)まで、江戸・東京市民に飲み水を供給し続け、日本最古の都市水道として、大きな役割を果たしました。 この樋は、懸樋(掛樋)と呼ばれ、この辺りに架けられていました。 この絵は、江戸時代に描かれたもので、この辺りののどかな風情が感じられます。 |
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外堀通り 神田上水懸樋(掛樋)跡 |
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外堀通り 順天堂大学 附属病院
順天堂交差点一帯には附属病院が林立する。後方の青いビルは東京医科歯科大学である。 |
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外堀通り 順天堂前交差点 順天堂大学 付属病院
交差点周辺は順天堂大の付属病院が並び、三叉路を左折すると本郷通りに出る。 |
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外堀通り 東京医科歯科大学 |
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外堀通り お茶の水交差点で右折、お茶の水橋を渡る |
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外堀通り お茶の水交差点で右折、お茶の水橋を渡る |
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JR 総武線 御茶ノ水駅 |