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JR 中央線快速 東京駅 八重洲口
中央線快速は東京駅を始発とし、新宿、三鷹、立川、八王子を経て高尾を終点とする。
駅数 21、営業距離 53.1km
【撮影記録】
平成22年 2月 3日 曇り後晴れ
10:20〜14:55 17,200歩(昼食15分、休憩10分)(概算 12.0km)
中央線快速 東京〜四ツ谷〜新宿
営業距離 10.3 km 駅数 5
前日早朝に降った残雪が残り寒い中、天気予報と違い曇り空で、時折小雨がぱらついたが、あとで晴れてきた。6年前のコースを見直し、他の路線では撮れない所を歩いた。例えば湯島聖堂(旧 昌平黌)や、四谷怪談の於岩稲荷、賑わいの新宿通りである。 |
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外堀通り 中央区 江戸バス(北循環) #6 東京駅 八重洲北口
グラントウキョウ ノースタワー の八重洲口から、外堀通りを北上してすぐの第2鉄鋼ビルの前にある。、 |
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外堀通り 呉服橋交差点で永代通りを渡る |
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外堀通り 一石橋
左のさくの中に迷子しらせ石標がある。 |
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外堀通り 一石橋 迷子しらせ石標 |
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外堀通り 一石橋 迷子しらせ石標
江戸時代も後半に入る頃、この辺から日本橋にかけては盛り場で迷子も多かったらしい。
迷子がでた場合、町内が責任をもって保護することになっていたので、付近の有カ者が世話人となり、安政四年(一八五七)にこれを建立したものである。
柱の正面には「満よい子の志るべ」、右側には、「志らする方」、左側には「たづぬる方」と彫り、上部に窪みがある。利用方法は左側の窪みに迷子や尋ね人の特徴を書いた紙をはり、それを見る通行人の中で知っている場合は、その人の特徴を書いた紙を窪みに馳って迷子や尋ね人を知らせたという。いわば庶民の告知板として珍しい。このほか浅草寺境内と、湯島天神境内にもあったが、浅草寺のものは戦災で破壊された。 |
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外堀通り 一石橋の親柱
皇居外堀と日本橋川が分岐する地点に架橋された一石橋の歴史は古く、江戸初期の「武州豊島郡江戸庄図」にすでに木橋として見えています。当時は西河岸町と北鞘町とを結ぶ橋で、橋名の由来としては、北橋詰近くの本両替町に幕府金座御用の後藤庄三郎、南橋詰近くの呉服町には、幕府御用呉服所の後藤縫殿助の屋敷があり、後藤をもじって五斗、五斗+五斗で一石と名付けたと「江戸砂子」に見え、日本橋地区と神田地区を結ぶ橋として重要でした。
木橋としては最後となった明治六年(一八七三)の一石橋は長さ十四間、幅三間の橋でした。大正十一年(一九二二)に東京市道路局によって鉄骨コンクリート花崗岩張りのモダンな橋となり、堂々とした親柱四基をすえた白亜の橋となったのです。関東大震災にも落橋せず、その後も交通上の重要な橋として使われてきました。平成九年には大正十一年の橋本体は全て撤去されましたが、威風堂々とした花崗岩の親柱一基は残され、当時の姿をしのばせています。
平成十四年に中央区民文化財に登録されました。 |
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外堀通り 常盤橋交差点で江戸桜通りを渡る
交差点の右角には日銀本店旧館がある。 |
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外堀通り 常盤橋交差点
常盤橋を渡り、首都高都心環状線の高架の先には常盤橋公園がある。 |
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常盤橋交差点で右折、 江戸桜通り 日銀本店旧館 |
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江戸桜通り 日銀本店旧館
日銀本店旧館は明治29年(1896年)に完成した重要文化財で、金座跡に作られているが、特別な案内板などはない。 |
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外堀通り 日本橋川 常盤橋 防災船着場
柵に囲まれており、掲示板には
「この船着場は、大地震等災害時に陸上交通の補完施設として、河川舟運が有効に機能するよう、整備されたものです。」
と表記されている。江戸が水都だったことを思い出させる。 |
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外堀通り 旧常盤橋
徳川家光の頃までは大橋とか、浅草橋とか言われていたが、後に改称、常磐橋となった。関東大震災後、下流の日本銀行前に新たに架けられた。
常盤橋門は江戸城タト郭の正門として奥州道に通じ、敵の侵入を防ぎ、味方の出撃を容易にする為、大きな切石で積み上げられた「コ」の字型の枡形門である。又、天正18年(1590)架橋といわれる旧常盤橋は、両国橋がかかるまで江戸−の大橋であった。現在の石橋は門跡の石等も使い、明治10年に改架したもので、洋式石橋の創始といわれている。この常盤橋の名称は、家光の時代「色かへぬ松によそへてあづま路の常磐の橋にかかる藤なみ」の歌に因みつけられたものといわれる。 |
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外堀通り 新常盤橋交差点で右折、江戸通りへ |
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江戸通り 常磐小学校 |
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江戸通り 常磐小学校
常磐小学校は明治6年に開校し、現在使用されている建物は、関東大震災を機に、耐震・耐火性の高い鉄筋コンクリート造の校舎として建て替えられたものである。
震災復興期の小学校建築には、装飾性を加味したものと、機能を重視したインターナショナル・スタイル(国際建築様式)の二つの傾向があったが、この校舎は前者の代表作である。
アーチのついた出入口、半円形の窓とその窓台、半円形の庇など幾何学的な装飾が特徴で、建築様式としては表現主義と呼ばれる。
ビルが林立する中で、今なお往時の景観を残している。 |
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江戸通り 日銀通り 日本橋都ビル交差点
交差点名はないが、日銀本店旧館と三井本館との間の日銀通りから江戸通りに出る交差点である。
中央区のコミュニティバスである江戸バス(北循環)と、日本橋界隈を巡る無料シャトルバスのメトロリンク日本橋はこの交差点から江戸通りに出る。 |
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江戸通り 室町三丁目交差点で左折、 中央通りへ
江戸バス(北循環)と、メトロリンク日本橋は右折し、日本橋三井タワー、三井本館、三越本店がある三井村に向かう。 |
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中央通りを北上
中央通りは国道17号でもある。 |
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中央通り 今川橋由来碑
今川橋が神田堀(別名神田八丁堀・龍閑川)に架設されたのは天和年間(一六八一〜八三)との記録があります。橋名の由来は、当時の名主今川氏の尽力により架けられたのでその名が残りました。この橋は日本橋から中山道に通ずる重要な橋でもありました。 神田堀は現在の千代田区神田・中央区日本橋地域の境を流れ、その役割は非常に大きく当時の運輸手段の主流でもありました。
昭和二十五年(一九五二)龍閑川は埋立てられ、三百年近く馴れ親しんだ今川橋も撤去され、現在はその面影もありません。
左図の絵図は江戸時代末期頃の界隈風景てす。この橋辺には陶磁器をあきなう商家が立ち並び、大層賑わったといいます。 |
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中央通り 今川橋交差点 |
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JR 中央線快速 神田駅 |