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下総中山駅から北上、大本山法華経寺の案内がある交差点で千葉街道を渡る |
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大本山 法華経寺 中山参道 京成本線の踏切を渡る
踏切の左手に京成中山駅が見える。 |
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大本山 法華経寺 中山参道 京成本線の踏切 界隈案内図 |
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大本山 法華経寺 中山参道 総門(黒門)
大本山 法華経寺 黒門 附扁額
この門は法華経寺の総門で、全体が墨塗りとなっているため黒門と呼ばれています。建立年代は明確ではありませんが赤門(仁王門)の創建と同じ、江戸時代の初期頃と考えられます。
門の形式は高麗門(こうらいもん)と呼ばれる形式で、四角の本柱二本と丸い控柱二本で構成され、本柱の上には細長い切妻屋根を掛け、本柱と控柱の間にも一段下げて直角に切妻屋根を掛けます。もともと高麗門は城郭の外門に設けられたので板扉が付けられますが、黒門には門扉が付いた痕がなく、当初から吹き通しの門でした。
建立後、度々の修理が行われましたが、これは控柱が掘立で五〇年程度での取替えが必要なこと、屋根葺替えや塗装が主なる修理内容です。本柱など本体構造は当初の状態で残っています。
なお、正面中央に掛かる扁額は掛川城主太田資順の筆で、裏面に寛政五年(一七九三)の刻銘があり、門の附指定です。全体に彩色が施され、文字は浮彫りになっています。
如来滅後
閻浮堤内
本化菩薩
初轉法輪
法華道場
平成二十一年七月より十七か月を要して解体修理を施し、基礎を新たにコンクリート造に改め、控柱を取替えて従来の掘立柱を継承した。また、屋根の銅板を葺替えたほか、腐朽していた木鼻等を取替えて塗装を塗り替えた。併せて扁額の修理も施した。 |
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大本山 法華経寺 中山参道 総門(黒門) |
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大本山 法華経寺 中山参道 山門(仁王門、赤門) |
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大本山 法華経寺 桜並木の参道
長い参道の両脇に多くの塔頭が並ぶ。 |
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大本山 法華経寺 入口 |
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大本山 法華経寺 入口にある案内
正中山法華経寺は、祖師日蓮の足跡がみとめられる日蓮宗の霊跡寺院・大本山です。
中世、この地は八幡荘谷中郷と呼ばれ、下総国守護千葉氏の被官である富木常忍と太田乗明が館を構えていました。彼らは曽谷郷の曽谷氏とともに、日蓮に帰依してその有力な檀越となりました。時に鎌倉時代の中期、建長年間(一二四九〜五五)頃のことです。
彼らの館には持仏堂が建立され、のちにそれが寺院となったのが法華経寺の濫觴です。若宮の富木氏の館は法華寺、中山の太田氏の館は本妙寺となり、当初は両寺が並びたって一寺を構成していました。この両寺が合体して法華経寺を名乗るのは、戦国時代の天文十四年(一五四五)以後のことです。
富木常念は出家して日常と名乗り、法華経寺の初代貫首となり、二代目は太田乗明の子日高が継ぎました。そして千葉胤貞の猶子である日祐が第三代貫首となった鎌倉末期から南北朝期ごろ、法華経寺は隆盛の時代を迎えます。千葉胤貞は当時、守護ではありませんでしたが、千葉氏の有力な一派として威をはり、下総・肥前などの土地を寄進して、日祐の後押しをしています。日祐は胤貞の亡父宗胤の遺骨を安置し、名実ともに法華経寺を胤貞流千葉氏の氏寺とし、その後の法華経寺の基礎をつくりました。その後、室町時代をへて江戸時代に至ると、ひろく庶民にまで信仰される寺院となります。
法華経寺には、祖師日蓮の書いた「立正安国論」「観心本尊妙」の国宝や重要文化財をはじめとして多数の聖教(仏典)が保存されています。これは千葉氏のもとで分筆官僚の任にあたっていた日常が熱心に整理保存に意をそそいで以来、寺内の宝蔵や坊で厳重に保存されてきた結果です。現在は境内の奥の堅牢な聖教殿で保存されており、その伝統はいまも確かに受け継がれています。
また、日蓮自筆の聖教の裏からは、鎌倉時代の古文書が発見されました。これは紙背文書と言います。これは富木常忍が提供した千葉氏関係の事務書類を、裏返して著者の料紙として日蓮が使用した結果、偶然にのこされたもので、歴史に残りにくい人身売買や借金の実態など、当時の東国社会の生々しい現実を知る貴重な資料となっています。 寺内にはその他、重要文化財の法華堂・祖師堂をはじめとする堂舎、絵画や古記録・古文書などの数々の文化財があります。また周辺には日蓮が鎌倉にむけて船出したという二子浦(現船橋市二子周辺)の伝説など、日蓮にまつわる伝説も豊富に残されています。
これらにより大本山としてはもちろん、さながら文化財の宝庫として、法華経寺の名は全国に知られています。 |
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大本山 法華経寺 入口にある境内案内図
現在地は左下隅である。 |
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大本山 法華経寺 境内(祖師堂) |
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大本山 法華経寺 五重塔
建築年代 江戸時代 元和八年(一六ニニ)
構造形式 三間五重塔婆 瓦棒銅板葺
この五重塔は本阿弥光室が両親の菩提を弔うために、加賀藩主前田利光公の援助を受けて建立したものです。塔の総高は九八尺(約三十m)で近世の五重塔としては標準的な規模となり、東京都大田区池上にある本門寺の五重塔(重要文化財)や台東区上野の寛永寺五重塔(重要文化財)とほぼ同じですが、他のものと比較すると軒の出が少ないので細長い感じを受けます。
建築様式は和様を主体として造られていますが。最上重のみは禅宗様になっています。これは明治四十五年に半解体修理が施された際に変更されたものとみられます。また、初重の正面は両開きの桟唐戸、両脇には窓枠に等間隔に格子をはめ込んだ連子窓を取り付けた伝統的な形式を守っています。
塔の内部には中心に心柱、その外側には四天柱と呼ばれる四本の柱を立て、さらに禅宗様須弥壇(仏像を安置する壇)を置き、木造釈迦如来・多宝如来坐像(県指定文化財)を祀っています。四天柱をはじめとして内部は極彩色や朱漆で塗られ荘厳にされています。
昭和五十五年に修理が行われて外部に弁柄塗りが施されました。 |
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大本山 法華経寺 五重塔
五重塔の下に国歌「君が代」に詠われている「さざれ石」があるが、工事しており近寄ることが出来なかった。 |
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大本山 法華経寺 祖師堂 |
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大本山 法華経寺 祖師堂
構造形式
桁行七間、梁間七間、一重、比翼入母屋造、正面向拝三間、
背面向拝一間、こけら葺 附棟礼 十一枚
祖師堂は宗祖日進聖人をお祀りするお堂で、最初は鎌倉時代の正中二年(一三二五)に上棟した小規模な五間堂でした。その後、焼失などのため数回の再建があり、現在の祖師堂は江戸時代中期の延宝六年(一六七八)に上棟されたものです。
建物は大規模な七間堂で、屋根を二つ並べたような比翼入母屋造の形式を持つのが特徴です。このお堂の他に比翼入母屋造の屋根を持つのは全国でも岡山県にある吉備津神社本殿(国宝)だけです。堂内は、正面の吹き放し外陣、内部の広い内陣、それに両脇の脇陣と背面の後陣に区切られています。
内外陣境の上部には楊格子、下方には結界と呼ばれる取り外し可能な仕切りを入れ、また内脇陣境にも同様な結界がありますが、大きな行事の際には、これらを開け放って堂内を広く使うことができるように工夫されています。
これらは日蓮宗の仏堂によく見られる特有の形式です。内陣は本来板敷きですが、現在は畳を敷詰めてあります。天井は格縁天井といい、碁盤目状の縁の部分は黒漆塗りで、天井板には桔梗紋が描かれているほか、内陣周りの上部は極彩色塗りで荘厳にされています。
祖師堂は関東地方では数少ない大型日蓮宗仏堂の典型で、その規模や形式は当時の庶民信仰の動向を知る上での一指標として位置付けられるとともに、建立年代が明確な建造物としても重要です。
昭和六十二年から始まった解体修理は十年の歳月を費やして平成九年に完了し、建立当初の姿に復原されました。 |
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大本山 法華経寺 大仏
勧進趣意書
この銅像釈迦如来座像一お釈迦さまが悟りを開かれた姿の座像です。
丈六像と云われて来ましたが、座高は三五六糎、膝張二七九.五糎の法量をもつ大佛像で参拝の人を優しく包み込むお釈迦さまの貴高さを表しておられます。京都洛中本山本法寺第廿八世から享保二年(一七一七)八月当山第五十九世貫首の法燈を継承された玄理院日禅聖人は熱烈な布教活動を行い浄財を集め神田鍋町に住む御鋳物師太田駿河守藤原正義に依頼して享保四年九月にこの大佛が完成いたしました。併しながら二百九十年という永い歳月風雨に曝され材質が変化し欅等の樹木の根で台座が歪み蓮座も浮き上がりコンクリートで埋めているという現状です。大学教授や消防署の調査で耐震工事を含め大修理を行わざるえお得ないと云う結論に達し
壱口一、金壱万円也以上
の浄財勧進を発願して檀信徒の皆様方に浄財協力をお願い申し上げる次第であります。
尚、浄財は本院寺務所並びに祖子堂受付にて申し受けております。
顕彰方法は別途協議中です。 |
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大本山 法華経寺 大仏 |
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大本山 法華経寺 開山 日常聖人像 |
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大本山 法華経寺 右折して鬼子母神堂へ |
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大本山 法華経寺 日蓮宗 大荒行堂 |
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大本山 法華経寺 日蓮宗 鬼子母大尊神堂 |
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大本山 法華経寺 左折して法華堂へ |
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大本山 法華経寺 宝殿門
宝殿門を通り抜けると聖教殿がある。 |
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大本山 法華経寺 宇賀神堂 |
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大本山 法華経寺 法華堂前 四足門 |
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大本山 法華経寺 法華堂前 四足門
建築年代 室町時代後期
構造形式 四脚門、切妻造、こけら葺
四足門はもと鎌倉の愛染堂にあったものをこの地に移したと伝えられています。法華経寺では、はじめ本院の玄関門としてしていましたが、明治になって法華堂前の現在の場所に移されました。建築年代は形式より室町時代後期と思われます。
この門はほぼ純粋な禅宗様で造られ、本柱を棟近くまで延ばし、この前後に控柱を立てて、これらを海老虹梁という湾曲した腰の強い梁で繋ぐ珍しい構造です。柱の断面はやや楕円形でこれも他に例のないものです。
さらに彫刻類の装飾が多いことも特徴のひとつで、それぞれ室町時代後期に多くみられる文様や形をよく現してしています。これらの装飾は全て正面を意識して造られていることから、もとは側面の両側に塀を附属させた入口門であったと考えられます。また建具は和様の板唐戸を用いて様式的な変化を持たせています。柱、虹梁(梁の一種)など主要な部材には欅、その他の部分には檜・杉・桜などを用いています。
昭和十年に解体修理が行われ、大部分の部材が新しいものと取り替えられましたが、使用可能なものは文化財の保存の意味からも再用しています。 |
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大本山 法華経寺 法華堂 |
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大本山 法華経寺 法華堂 |
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大本山 法華経寺 祖師堂への渡り廊下
祖師堂に行くことは出来ない。 |
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大本山 法華経寺 法華堂前 四足門
祖師堂横から四足門を見ると満開の皐月がきれいである。 |
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大本山 法華経寺 祖師堂、五重塔 |