|
明治通り(本郷通り) 飛鳥山交差点
飛鳥山公園に向かうための横断歩道がなく、飛鳥山交差点にある飛鳥山公園歩道橋で明治通りを横断する。 |
|
明治通り(本郷通り) 飛鳥山交差点
都内で唯一残る都電の路面電車である荒川線が明治通りを走る。都電荒川線は物珍しさもあって、普段から乗る人が多いが、花見シーズンは飛鳥山公園だけでなく、始発の早稲田界隈の神田川、荒川遊園地と言った桜の名所があり、臨時便増発や、満員通過さえある。
明治通りはこの交差点で右に曲がり、荒川線も一緒に曲がり、以後本郷通りを歩く。 |
|
飛鳥山公園 散り始めた桜並木
木により異なるが、さすがに盛りを越して散り始めている。
飛鳥山公園は西ヶ原一里塚から200m弱北に進んだ所から始まり、南北に長く、東はJR京浜東北線の線路、西は本郷通り、北は王子駅に向かう明治通りが境界になっている公園である。 |
|
飛鳥山公園 散り始めた桜並木
左には舞台があり、桜まつり期間中にはアトラクションが行われる。今年は東日本大震災の為、自粛し中止である。 |
|
飛鳥山公園 散り始めた桜並木
上野程ではないが、例年なら花見の宴が行われている。一部に批判はあるものの、さすがに東日本大震災の大惨事を連日報道されており、自粛ムードが漂う。 |
|
飛鳥山公園 飛鳥山の歴史碑
飛鳥山公園は、明治六年に定められたわが国最初の公園の一つです。この公園のある台地は、上野の山から日暮里、田端、上中里と続いている丘陵の一部です。
ここを飛鳥山と呼ぶようになったのは、昔この上の旭重山(現在の展望台の所)に飛鳥明神が祀られていたからと伝えられています。 |
|
飛鳥山公園 飛鳥山碑
八代将軍吉宗は、鷹狩りの際にしばしば飛鳥山を訪れ、享保五年(一七二〇)から翌年にかけて、ー二七〇本の山桜 の苗木を植栽した。元文二年(一七三七)にはこの地を王子 権現社に寄進し、別当金輪寺にその管理を任せた。このころから江戸庶民にも開放されるようになり、花見の季節には行楽客で賑わうようになった。この碑文は、吉宗が公共園地として整備したことを記念して、幕府の儒臣成島道筑(風卿・錦江)によって作成されたもので、篆額は尾張の医者山田宗純の書である。碑文の文体は中国の五経の一つである尚書(「書」または「書経」ともいう)の文体を意識して格調高く書かれており、吉宗の治世の行き届いている太平の世であることを喧伝したものと考えられる。碑文には元亨年中(ー三二ー〜三)に豊島氏が王子権現(現在の王子神社)を勧請したことから、王子・飛鳥山・音無川の地名の由来を説いて、土地の人々がこれを祀ったこと、寛永年間に三代将軍家光がこの地に改めて王子権現社に寄進した経緯などが記されている。
異体字や古字を用い石材の傷を避けて文字を斜めにするなど難解な碑文であり、「飛鳥山何と読んだか拝むなり」と川柳にも読まれたほど、江戸時代から難解な碑文としてよ く知られている。 |
|
飛鳥山公園 飛鳥山碑 |
|
飛鳥山公園 明治三十七八年 戦役記念碑
都内のあちこちにある日露戦争の戦勝記念碑である。普通表面にある揮毫者の名前はない。 |
|
飛鳥山公園 児童遊園地 |
|
飛鳥山公園 紙の博物館 |
|
飛鳥山公園 北区飛鳥山博物館 |
|
飛鳥山公園 散り始めた桜並木 |
|
飛鳥山公園 渋沢資料館 |
|
飛鳥山公園 渋沢資料館
渋沢資料館、北区飛鳥山博物館、紙の博物館を飛鳥山の3つの博物館と言う。 |
|
飛鳥山公園 晩香廬・青淵文庫
青淵文庫は、渋沢栄一(号・青淵)の80歳と子爵に昇爵した祝いに、門下生の団体「竜門社」より寄贈された。渋沢の収集した「論語」関係の書籍(関東大震災で焼失)の収蔵と閲覧を目的とした小規模な建築である。
外壁には月出石(伊豆天城産の白色安山岩)を貼り、列柱を持つ中央開口部には、色付けをした陶板が用いられている。「竜」をデザインしたステンドグラスがはめ込まれ、色鮮やかな壁面が構成されている。内部には1階に閲覧室、記念品陳列室、2階に書庫があり、床のモザイクや植物紋様をあしらった装飾が随所に見られ、照明器具を含めて華麗な空間が表現されている。 |
|
飛鳥山公園を出て、本郷通りへ |
|
本郷通り 飛鳥山公園沿いに南東に進む |