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三渓園 旧燈明寺三重塔
三渓園のランドマークとして有名で、大池沿いの三渓園茶寮などの後ろにあり、上って行く。 |
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三渓園 鶴翔閣 |
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三渓園 鶴翔閣
鶴翔閣(旧原家住宅)は原富太郎(三渓)が明治30年代に自邸として建てた住宅で、楽室棟・茶の間棟・書斎棟・客間棟・仏間棟・倉などの建物群で構成されています。この建物は居住用と来客用の機能をあわせ持ち、横浜市域の近代和風建築を代表すると共に、横山大観ら日本美術院の作家たちがたびたび出入りし、近代の日本画壇に大きく貢献した記念物としての価値も認められます。 |
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三渓園 鶴翔閣 |
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三渓園 大池沿いに南下 |
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三渓園 旧燈明寺三重塔 |
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三渓園 三溪記念館 |
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三渓園 三溪記念館 |
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三渓園 臨春閣 |
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三渓園 臨春閣
この建物は、紀州侯初代の徳川頼宣によって慶安2年(1649)に、和歌山県那賀郡岩出町の紀ノ川沿いに建てられた夏の別荘巌出御殿といわれています。8代将軍吉宗は幼時この巌出御殿に育ち、享保元年(1716)に将軍になりました。
また、この建物は数寄屋風書院造として、宮家別荘桂離宮と共に我国住宅史上において別荘建築の双璧といわれています。
三渓園には大正6年(1917)に移築されました。 |
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三渓園 臨春閣 |
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三渓園 旧天瑞寺寿塔覆堂 |
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三渓園 旧天瑞寺寿塔覆堂 |
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三渓園 旧天瑞寺寿塔覆堂
寿塔とは長寿を祝って生存中に建てる墓のことです、豊臣秀吉は、その母大政所が大病にかかったとき、その平癒祈願のため京都大徳寺内に天瑞寺を建てました。功験あって平癒したのを喜び、母の長寿を祝って天正20年(1592)石造の寿塔を建てました。
この建物はその寿塔の覆堂で、明治35年(1902)三渓園に移築されたものです。なお寿塔は現在大徳寺内、竜翔寺にあります。 |
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三渓園 亭●
●は木偏に「射」である。
亭●(ていしゃ)とは、四阿(あずまや)のことである。 |
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三渓園 内苑
様々に紅葉した木々が美しいが、何故か黄葉した木々は殆ど無い。 |
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三渓園 聴秋閣 |
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三渓園 聴秋閣
この建物はもと三笠間と呼ばれ、元和9年(1623)3代将軍徳川家光か上洛に際し、佐久間将監に命じて京都二条城内につくらせたものといわれています。その後これを春日局に賜り、江戸稲葉侯邸内に移され、三渓園には大正11年(1922)に移築されました。 |
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三渓園 臨春閣 |
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三渓園 案内図(三溪記念館)
現在地は、ほぼ中央右の赤印で、三溪記念館前の大池沿いである。 |
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三渓園 大池沿いに北上 |
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三渓園 正門前 バス利用案内
三渓園にはバス停がなく、正門から本牧桜道を進み、本牧三渓園前交差点か、本牧通りに行かなければならない。 |
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三渓園 正門 |