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井伊家菩提寺 豪徳寺(H2402 小田原線)

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城山通り 豪徳寺 入口 城山通り 豪徳寺 入口 
城山通り 豪徳寺 入口 城山通り 豪徳寺 入口 
豪徳寺 松並木の参道を北上 豪徳寺 松並木の参道を北上 
豪徳寺 総門 豪徳寺 総門 

世田谷吉良氏が弘徳寺として創建したが、吉良氏滅亡時に焼失した。
井伊掃部守直孝がこの地を領した時、夕立にあい、猫が招いてこの寺に入った、との話から招き猫の伝説が出来たことでも有名。井伊家が再建し、直孝の法号に因み豪徳寺となった。
この寺には、桜田門の変で落命した井伊直弼の墓もあり、近くに吉田松陰の墓があって、ちょっとした安政の大獄番外編である。
豪徳寺 総門 豪徳寺 総門 
豪徳寺 仏殿 豪徳寺 仏殿 

豪徳寺仏殿は、寛文から延宝年間にかけて行われた天造営事業の中心的建造物である。この事業を進めたのは、井伊直孝の妻春光院とその娘掃雲院のふたりである。
仏殿は、掃雲院が藩主直澄の菩提を弔うために延宝四年(一六七六)、建設に着手し、翌宝五年(一六七七)に完成した。豪徳寺四世天極秀道の代で、工匠星野市左衛門尉積則らが造営に当たった。
当時流行した黄檗様式の影響が随所に見られるとともに絵様肘木など特異な様式が使われており、建築学史上、また技術的にも価値の高いものである。
豪徳寺 忠正公神道碑 豪徳寺 忠正公神道碑 

総門を入ってすぐにある石碑で、井伊直弼の次男で最後の藩主である忠正院殿(直憲 第14代)の事蹟が書かれている。
豪徳寺 仏殿前の香炉 豪徳寺 仏殿前の香炉 
豪徳寺 三重塔 豪徳寺 三重塔 

平成18年5月に落慶法要が行われたが、その頃小田急小田原線を歩いていたので、豪徳寺駅から足を伸ばした。その時は木の香りもするが、新しすぎて豪徳寺の雰囲気に合わない気がした。6年後の今はそれなりに落ち着きが出てきている。
豪徳寺 来歴 豪徳寺 来歴 

豪徳寺は世田谷城主吉良政忠が、文明12年(1480)に亡くなった伯母の菩提のために建立したと伝えられる弘徳院を前身とする。天正12年(1584)中興開山門菴宗関(もんなんそうかん)」(高輪泉岳寺の開山)のとき、臨済宗から曹洞宗に改宗した。
寛永10年(1633)彦根藩世田谷領の成立後、井伊家の菩提寺に取り立てられ、藩主直孝の法号により豪徳寺と改称した。直孝の娘、掃雲院は多くの堂舎を建立、寄進し、豪徳寺を井伊家の菩提寺にふさわしい寺観に改めた。仏殿とその三世仏(さんぜぶつ)像、達磨・大権修理像および石灯籠2基、梵鐘が当時のままに現在に伝えられている。
境内には直孝をはじめ、井伊家代々の墓所があり、桜田門外で暗殺された井伊直弼の墓は都史跡に指定されている。ほかに直弼の墓守として一生を終えた遠城謙道、近代三大書家の随一日下部鳴鶴(いずれも旧彦張藩士)の墓、桜田殉難八士之碑がある。また同寺の草創を物語る、洞春院(吉良政忠)と弘徳院の宝篋印塔が残されている。
豪徳寺 仏殿 豪徳寺 仏殿 
豪徳寺 豪徳寺仏殿像 五躯 豪徳寺 豪徳寺仏殿像 五躯 

木造大権修利菩薩倚像 総高 百一 センチメートル
木造弥勒菩薩坐像    像高 八十 センチメートル
木造釈迦如来坐像    像高 七十二センチメートル
木造阿弥陀如来坐像   像高 七十二センチメートル
木造達磨大師坐像    像高 六十四..八センチメートル

 本像五躯は、仏殿に右記の順に安置されている。胎内銘札によると、延宝五年(一六七七)、井伊直孝の娘掃雲院が、父の菩提を弔うために「洛陽仏工祥雲」に、五躯一具として造らせたものであることがわかる。
 祥雲は黄檗宗の鉄眼の弟子で、のちに本所五百羅漢寺(現、目黒区)の五百羅漢像を彫造した松雲元慶(一六四八〜一七一〇)のことである。
 当寺仏殿建立を初め豪徳寺の復興に努めていた掃雲院は、鉄眼ら黄檗僧に深く帰依し、その影響を受けていた。このような関係から仏殿像造立に当たって、祥雲は推挙されたものと考えられる。
 本像は、江戸時代の代表的な仏師祥雲の早期の作例として、また黄檗風仏像彫刻の数少ない遺例として貴重である。
豪徳寺 鐘楼 豪徳寺 鐘楼 
豪徳寺 梵鐘 豪徳寺 梵鐘 

 本梵鐘は、延宝七年に完成の後、今日まで移動なく当寺に伝えられてきた。
 形姿は、比較的細身で均整のとれた優美な姿を呈し、吊手の竜頭は力強くメリハリのきいた雄渾な造形で、細部の表現も精巧な出来栄えである。撞座の意匠も独創的であり、工芸的に優れた完成度の高い梵鐘といえる。
 制作者の藤原正次は、別に釜屋六右衛門とも名乗り、当時江戸で名のあった鋳物師である。また世田谷代官大場市之丞吉寛が幹事となっている。
 本梵鐘は、この時期の梵鐘の一典型として、さらには、著名な鋳物師の力量を窺う作品として、美術工芸的に貴重である。また、区内に伝わる梵鐘としては現存最古であり、世田谷に縁ある人物がその制作にかかわるなど、近世世田谷の歴史を知るうえでも貴重な遺品である
豪徳寺 井伊家墓所案内 豪徳寺 井伊家墓所案内 

仏殿に掲示されている。昔はこのような案内もなく、場所が分からなかった。4年前に世田谷線沿線を歩いた時には「直弼公 墓所案内」という紙が張られていたが、今回はしっかりしたものになっていた。
豪徳寺 本堂 豪徳寺 本堂 

仏殿の裏にあり、分かりにくい。
豪徳寺 三重塔横の紅梅 豪徳寺 三重塔横の紅梅 

今年は寒かったせいか、3月中旬なのに満開とはなっていない。
豪徳寺 招福殿(招き猫) 豪徳寺 招福殿(招き猫) 

仏殿の左で、井伊家墓所に向かう道の右手にある。
豪徳寺 招福殿(招き猫) 豪徳寺 招福殿(招き猫) 

招福殿の左手に招き猫が飾られており、その奥に参拝客が祀った招き猫の棚が見える。
豪徳寺 招福殿(招き猫) 豪徳寺 招福殿(招き猫) 
豪徳寺 招福殿(招き猫) 豪徳寺 招福殿(招き猫) 

豪徳寺の招き猫は昔ながらのすっきりとした姿で、小判も持たず、色も上品である。ちなみに右手を挙げているのは福を招き、左手は財を招くといわれている。
豪徳寺 彦根藩主 井伊家墓所 豪徳寺 彦根藩主 井伊家墓所 
豪徳寺 彦根藩主 井伊家墓所 豪徳寺 彦根藩主 井伊家墓所 

井伊家は、遠江国井伊谷を中心に勢力を持った武士で、戦国期には今川氏の配下にあった。井伊家二十四世とされる直政は天正三年(一五七五)、十五歳で徳川家康に仕え、慶長五年(一六〇〇)の関ケ原合戦においては、自ら先峰を務め東軍の勝利に頁献した。合戦接、直政は近江国などに十八万石を与えられ、初代藩主として彦根藩の礎を築いた。続く、二代直孝も大坂夏の陣で功績をあげ、近江国、下野国、武蔵国世田谷にあわせて、三十万石を有する譜代大名の筆頭格となった。以後、幕未までこの家格は堅持され、藩主は江戸城溜間に控えて将軍に近侍し、時には大老職に就き幕府政治に参与した。寛永十年(一六三三)頃、世田谷が井伊家所領となったのを機に、領内の弘徳院が菩提寺に取り立てられた。
直孝の没後には、その法号「久昌院殿豪徳天英大居士」にちなみ豪徳寺と寺号を改め、以後、井伊家墓所として、江戸で亡くなった藩主や家族がここに葬られた。(以下 略)
豪徳寺 彦根藩主 井伊家墓所 墓所案内図 豪徳寺 彦根藩主 井伊家墓所 墓所案内図 

右下角が現在地で、中央やや右上に2代直孝、左角上に13代直弼の墓がある。
豪徳寺 彦根藩主 井伊家墓所 豪徳寺 彦根藩主 井伊家墓所 

墓所正面に2代直孝の墓所がある。
豪徳寺 彦根藩主 井伊家墓所 2代 井伊直孝墓 豪徳寺 彦根藩主 井伊家墓所 2代 井伊直孝墓 

正面が2代直孝の墓である。
豪徳寺 彦根藩主 井伊家墓所 豪徳寺 彦根藩主 井伊家墓所 

左奥に幕末の大老直弼の墓がある。
豪徳寺 彦根藩主 井伊家墓所 井伊直弼墓 豪徳寺 彦根藩主 井伊家墓所 井伊直弼墓 

井伊直弼(一ハ一五〜六〇)は彦根藩主直中の子て兄を継ぎ藩主となり、ついで安政五年(一八五八)四月大老になる。勅許を待たず日米修好通商条約など安政五ヶ国条約に調印。また十三代将軍家定の後継者を慶福(のちの家茂)に決定し、反対派の一橋慶喜らを抑えるという強い政策を実施。さらに安政の大獄を断行するに及んで、常に暗殺の危険にさらされ、遂に安政七年三月、江戸城外桜田門外において、水戸・薩摩の浪士らに暗殺された。
 世田谷郷は井伊家領であり、直弼は豪徳寺に埋葬された。
 墓石の高さは三四二センチ、正面に「宗観院殿正四位上前羽林中郎将柳暁覚翁大居士」とある。
豪徳寺 彦根藩主 井伊家墓所 井伊直弼墓 豪徳寺 彦根藩主 井伊家墓所 井伊直弼墓 

「宗観院殿正四位上前羽林中郎将柳暁覚翁大居士」と書いてある。
伊井家の他の墓は古くても読めるのに、何故か文字が磨り減ってよく見えない。



 
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