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城山通り 豪徳寺 参道入口
参道は長い松並木である。 |
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井伊家菩提寺 名刹 豪徳寺 総門 |
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井伊家菩提寺 名刹 豪徳寺 総門
総門の左には「都史跡 井伊直弼墓」の碑がある。 |
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井伊家菩提寺 名刹 豪徳寺 参道
正面に仏殿があり、左に三重塔がある。 |
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井伊家菩提寺 名刹 豪徳寺 参道 三重塔
平成18年5月に落慶法要が行われたが、その頃小田急小田原線を歩いていたので、豪徳寺駅から足を伸ばした。その時は木の香りもするが、新しすぎて豪徳寺の雰囲気に合わない気がした。それから7年半が経ち、それなりに落ち着きが出てきている。 |
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井伊家菩提寺 名刹 豪徳寺 仏殿前 豪徳寺案内
大谿山豪徳寺
豪徳寺は世田谷城主吉良政忠が、文明十二年(一四八〇)に亡くなった伯母の菩提のために建立したと伝えられる弘徳院を前身とする。天正十二年(一五八四)中興開山「門菴宗関(もんなんそうかん)」(高輪泉岳寺の開山)のとき、臨済宗から曹洞宗に改宗した。
寛永十年(一六三三)彦根藩世田谷領の成立後、井伊家の菩提寺に取り立てられ、藩主直孝の法号により豪徳寺と改称した。直孝の娘、掃雲院は多くの堂舎を建立、寄進し、豪徳寺を井伊家の菩提寺に相応しい寺観に改めた。仏殿とその三世仏(さんぜぶつ)像、達磨・大権修理菩薩像、及び石灯籠二基、梵鐘が当時のままに現在に伝えられている。
境内には、直孝を初め井伊家代々の墓所があり、井伊直弼の墓は都史跡に指定されている。ほかに直弼の墓守として一生を終えた遠城謙道、近代三大書家の随一日下部鳴鶴(いずれも旧彦根藩士)の墓、桜田殉難八士之碑がある。また同寺の草創を物語る、洞春院(吉良政忠)と弘徳院の宝篋印塔が残されている。 |
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井伊家菩提寺 名刹 豪徳寺 仏殿横 鐘楼、梵鐘
本梵鐘は、延宝七年(一六七九)に完成の後、今日まで移動なく当寺に伝えられてきた。
彫姿は、比較的細身で均整のとれた優美な姿を呈し、吊手の龍頭は力強くメリハリのきいた雄渾な造形で、細部の表現も精巧な出来栄えである。撞座の意匠も独創的であり、 工芸的に優れた完成度の高い梵鐘といえる。 製作者の藤原政次は、別に釜屋六右衛門とも名乗り、当時江戸で名のあった鋳物師である。また世田谷代官大場市之丞吉寛が幹事となっている。
本梵鐘は、この時期の梵鐘の一典型として、さらには、著名な鋳物師の力量を窺う作品としては現存最古であり、世田谷に縁ある人物がその制作ににかかわるなど、近世世田谷の歴史を知るうえでも貴重な遺品である。 |
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井伊家菩提寺 名刹 豪徳寺 仏殿横 鐘楼、梵鐘 |
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井伊家菩提寺 名刹 豪徳寺 仏殿
豪徳寺 仏殿
豪徳寺仏殿は、寛文から延宝年間にかけて行われた大造営事業の中心的建造物である。この事業を進めたのは、井伊直孝の妻春光院とその娘掃雲院のふたりである。
仏殿は、掃雲院が藩主直澄の菩提を弔うために延宝四年(一六七六)、建設に着手し、翌延宝五年(一六七七)に完成した。豪徳寺四世天極秀道の代で、工匠星野市左衛門尉積則らが造営に当たった。
当時流行した黄檗様式の影響が随所に見られるとともに絵様肘木など特異な様式が使われており、建築史学上、また技術的にも価航の高いものである。 |
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井伊家菩提寺 名刹 豪徳寺 仏殿像 五躯
木造大権修利菩薩倚像 総高 百 一 センチメートル
木造弥勒菩薩坐像 像高 八 十 センチメートル
木造釈迦如求坐像 像高 七十二 センチメートル
木造阿弥陀如来坐像 像高 七十二 センチメートル
木造達磨大師坐像 像高 六十四.八 センチメートル
本像五躯は、仏殴に右記の順に安置されている。胎内銘札によると、延宝五年(一六七七)、井伊直孝の娘掃雲院が、父の菩提を弔うために「洛陽仏工祥雲」に、五躯一具として造らせたものであることがわかる。
祥雲は黄檗宗の鉄眼の弟子で、のちに本所五百羅漢寺(現、目黒区)の五百羅漢像を彫造した松雲元慶(一六四八〜一七一〇)のことである。 当時仏殿建立を初め豪徳寺の復興に努めていた掃雲院は、鉄眼ら黄檗僧に深く帰依し、その影響を受けていた。
このような関係から仏殿造立に当って、祥雲が推挙されたものと考えられる。
本像は、江戸時代の代表的な仏師祥雲の早期の作例として、また黄檗風仏像彫刻の数少ない遺例として貴重である |
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井伊家菩提寺 名刹 豪徳寺 仏殿 |
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井伊家菩提寺 名刹 豪徳寺 総受付 |
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井伊家菩提寺 名刹 豪徳寺 本堂 |
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井伊家菩提寺 名刹 豪徳寺 招き猫付きの絵馬
招き猫の豪徳寺なので、絵馬も左に馬、右に招き猫が描かれている。 |
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井伊家菩提寺 名刹 豪徳寺 招き猫付きの三重塔
写真では小さくて見えにくいが、各層の中央には白い招き猫が飾られている。知る人ぞ知る秘密である。 |
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井伊家菩提寺 名刹 豪徳寺 招福殿(招き猫)
三重塔の北、井伊家墓所への道にある。 |
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井伊家菩提寺 名刹 豪徳寺 招福殿(招き猫) |
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井伊家菩提寺 名刹 豪徳寺 招福殿(招き猫)
豪徳寺の招き猫は昔ながらのすっきりとした姿で、小判も持たず、色も上品である。ちなみに右手を挙げているのは福を招き、左手は財を招くといわれている。 |
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井伊家菩提寺 名刹 豪徳寺 招福殿(招き猫) |
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井伊家菩提寺 名刹 豪徳寺 招福殿(招き猫)
破魔矢のお焚き上げのように古い招き猫ではなく、純白の人形が整然と並べられている。これをきれいと見るか、薄気味悪いと見るかは人それぞれである。 |
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井伊家菩提寺 名刹 豪徳寺 彦根藩主 井伊家墓所 |
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井伊家菩提寺 名刹 豪徳寺 彦根藩主 井伊家墓所 |
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井伊家菩提寺 名刹 豪徳寺 彦根藩主 井伊家墓所
国指定史跡 彦根藩主井伊家墓所 豪徳寺井伊家墓所
井伊家は、遠江国井伊谷を中心に勢力を持った武士で、戦国期には今川氏の配下にあった。井伊家二十四世とされる直政は天正三年(一五七五)、十五歳で徳川家康に仕え、慶長五年(一六〇〇)の関ケ原合戦においては、自ら先峰を務め東軍の勝利に頁献した。合戦接、直政は近江国などに十八万石を与えられ、初代藩主として彦根藩の礎を築いた。続く、二代直孝も大坂夏の陣で功績をあげ、近江国、下野国、武蔵国世田谷にあわせて、三十万石を有する譜代大名の筆頭格となった。以後、幕未までこの家格は堅持され、藩主は江戸城溜間に控えて将軍に近侍し、時には大老職に就き幕府政治に参与した。
寛永十年(一六三三)頃、世田谷が井伊家所領となったのを機に、領内の弘徳院が菩提寺に取り立てられた。直孝の没後には、その法号「久昌院殿豪徳天英大居士」にちなみ豪徳寺と寺号を改め、以後、井伊家墓所として、江戸で亡くなった藩主や家族がここに葬られた。
墓所の北西角には、豪徳寺中興開基の直孝墓が位置し、そこから南西に直進したところに幕末の大老、十三代直弼(宗観院殿)墓がある。直弼墓に至る参道沿いには、藩主や藩主正室らの墓石が整然と並び、豪徳寺の伽藍造営に貢献した亀姫(掃雲院殿・直孝長女)墓がその中央西側に位置している。
墓所内で最も古い墓は、直時(広度院殿・直孝四男)のもので、万治元年(一六五八)に建てられた。直孝が没したのは万治二年で、どちらの墓石も唐破風笠付位牌型で造られている。以降、豪徳寺に所在する藩主、正室、世子、側室の墓石は、いずれもこの形式で建造された。
また、墓所の北側の一角には、早世した井伊家子息子女らの墓石に混じって、江戸で亡くなった藩士とその家族の墓石も据えられている。これらを合わせると、墓所に所在する墓石の総数は三百基余になる。
彦根藩主井伊家墓所は、豪徳寺、清涼寺(滋賀県彦根市)、永源寺(滋貿県東近江巾)の三ヶ寺にあり、歴代藩主とその一族の墓が網羅される。各墓所は、将軍家側近でもあった井伊家の姿を物語り、江戸時代の幕藩体制と大名文化を考える上で欠くことのできない貴重な遺産であるため、一括で「彦根藩主井伊家墓所」として、平成二十年三月二十八日、国史跡に指定された。 |
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井伊家菩提寺 名刹 豪徳寺 彦根藩主 井伊家墓所 |
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井伊家菩提寺 名刹 豪徳寺 彦根藩主 井伊家墓所 |
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井伊家菩提寺 名刹 豪徳寺 彦根藩主 井伊家墓所 13代 井伊直弼墓
井伊直弼(一八一五〜六〇)は彦根藩主直中の子て兄を継ぎ藩主となり、ついで安政五年(一八五八)四月大老になる。勅許を待たず日米修好通商条約など安政五ヶ国条約に調印。また十三代将軍家定の後継者を慶福(のちの家茂)に決定し、反対派の一橋慶喜らを抑えるという強い政策を実施。さらに安政の大獄を断行するに及んで、常に暗殺の危険にさらされ、遂に安政七年三月、江戸城外桜田門外において、水戸・薩摩の浪士らに暗殺された。
世田谷郷は井伊家領であり、直弼は豪徳寺に埋葬された。
墓石の高さは三四二センチ、正面に「宗観院殿正四位上前羽林中郎将柳暁覚翁大居士」とある。 |
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井伊家菩提寺 名刹 豪徳寺 彦根藩主 井伊家墓所 13代 井伊直弼墓
桜田門外の変 後日談
1.護衛藩士の処分
襲撃時に死亡した8名(桜田殉難八士)は跡目相続が認められたが、重傷者は減知の上、井伊家の佐野領で幽閉、軽傷者は切腹、無傷の士卒は斬首、家名断絶となった。
2.幕府との関係
直弼失政を問う、として10万石減封の25万石とし、京都守護の家職を剥奪した。
このため、譜代筆頭であるが、官軍の東征軍に対し抵抗せず従った。
3.華族叙任
井伊家としては35万石、近江半国の国持大名として侯爵相当と考えていたが、減封のため伯爵となった、との不満が残った。但し、爵位の妥当性については諸説ある。 |
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井伊家菩提寺 名刹 豪徳寺 彦根藩主 井伊家墓所 |
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井伊家菩提寺 名刹 豪徳寺 彦根藩主 井伊家墓所 2代 井伊直孝墓 |