江戸の遺構

(English)

【見出し】
見附、御門跡 紀尾井町界隈(紀伊藩、尾張藩、彦根藩:井伊家)
薩摩藩邸 江戸の災害 犬屋敷(大久保、中野)
四谷怪談 於岩稲荷 その他



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(1)見附、御門跡 (見出しへ)

赤坂見附跡 赤坂見附跡 

左側にある石垣は、城外郭門のひとつである赤坂御門の石垣の一部です。江戸城の門は、敵の進入を発見する施設であるため、「見附」とも呼ばれ、二つの門が直角に配置された「枡形門」の形式をとっています。
赤坂見附跡 赤坂見附跡 

青山通り(国道246号線)を上り、赤坂プリンスホテル脇にある。
赤坂見附跡 赤坂見附跡 

左側にある石垣は、城外郭門のひとつである赤坂御門の石垣の一部です。江戸城の門は、敵の進入を発見する施設であるため、「見附」とも呼ばれ、二つの門が直角に配置された「枡形門」の形式をとっています。
史跡 江戸城外堀跡 赤坂御門 史跡 江戸城外堀跡 赤坂御門 

赤坂御門は、寛永13年(1636)に筑前福岡藩主黒田忠之により、この枡形石垣が造られ、同16年(1639)には御門普請奉行の加藤正直・小川安則によって門が完成しました。江戸時代のこの門は、現在の神奈川県の大山に参拝する大山道の重要な地点でもありました。
明治時代以降、門が撤廃され、その石垣も図のように大部分が撤去されました。
喰違見附跡 喰違見附跡 

彦根藩中屋敷跡の碑から少し四谷方向に向かった所にあり、紀尾井坂との交差点にある。
紀之国坂交差点から来ると三叉路の交差点にあり、直進すると尾張藩邸跡を経て四ッ谷駅に出る。右折すると、ニューオオタニを経て紀尾井坂を下る。
馬場先門跡碑 馬場先門跡碑 
浅草見附跡 浅草見附跡 

浅草橋の北詰にある。奥州街道の道筋で、浅草観音への道でもあり、浅草見附があった。
高輪大木戸跡 

田町よりの出入り口を出て、品川に向かって第一京浜の左側を進むと目の前に見える。赤穂義士の泉岳寺は、品川よりの出口で、第一京浜の右側である。
高輪大木戸跡 高輪大木戸跡 

高輪大木戸は、江戸時代中期の宝永七年(一七一〇)に芝ロ門にたてられたのが起源である。享保九年(一七二四)に現在地に移された。現在地の築造年には宝永七年説・寛政四年(一七九二)など諸説がある。江戸の南の入口として、道幅約六間(約十メートル)の旧東海道の両側に石垣を築き夜は閉めて通行止とし、治安の維持と交通規制の機能を持っていた。四谷大木戸は既にその痕跡を止めていないので、東京に残された、数少ない江戸時代の産業交通土木に関する史跡として重要である。
高輪大木戸跡 高輪大木戸跡 

「高輪大木戸跡」の文字は第一京浜側にあるが、生垣があり、見ることが出来ない。撮影も面倒だった。
牛込見附(牛込御門跡) 牛込見附(牛込御門跡) 

 この橋は、「牛込橋」といいます。
 「御府内備考」によれば、江戸城から牛込への出口にあたる牛込見附(牛込御門)の一部をなす橋で、「牛込□」とも呼ばれた重要な交通路でした。また、現在の外堀になっている一帯は堀が開かれる前は広大な草原で、その両側は「番町方」(千代田区側)と「牛込方」(新宿区側)と呼ばれてたくさんの武家屋敷が建ち並んでいたと伝えられています。
牛込見附(牛込御門跡) 牛込見附(牛込御門跡) 
牛込見附(牛込御門跡) 牛込見附(牛込御門跡) 

江戸城郭門の一つである牛込見附の一部の石垣が現在も残っている。
日比谷公園 日比谷見附跡 日比谷公園 日比谷見附跡 

この石垣は、江戸堀外郭城門の一つ、日比谷御門の一部です。
 城の外側から順に、高麗門・枡形・渡櫓・番所が石垣でかこまれていましたが、石垣の一部だけが、ここに残っています。
 当時、石垣の西側は濠となっていましたが、公園造成時の面影を偲び、心字池としました。
日比谷公園 日比谷見附跡 日比谷公園 日比谷見附跡 
日比谷交差点 日比谷交差点 
江戸通り 浅草橋南詰 郡代屋敷跡 江戸通り 浅草橋南詰 郡代屋敷跡 

 江戸時代に、主として関東の幕府直轄領の、年貢の徴収・治水・領民紛争の処理などを管理した関東郡代の役宅があった場所です。
 関東郡代は、天正十八年(一五九〇)徳川家康から代官頭に任命された伊奈忠次の二男忠治が、寛永十九年(一六四二)に関東諸代官の統括などを命じられたことにより事実上始まるとされます。元禄年間(一六八八〜一七〇四)には関東郡代という名称が正式に成立し、代々伊奈氏が世襲しました。
 その邸宅は、初め江戸城の常盤橋門内にありましたが、明暦の大火(一六五七)による焼失後、この地に移り、馬喰町郡代屋敷と称されました。
 寛政四年(一七九二)に伊奈忠尊が罪を得て失脚した後は、勘定奉行が関東郡代を兼ねることとなり、この地に居住しました。文化三年(一八〇六)に関東郡代制が廃止され、さらに屋敷が焼失した後には、代官の拝領地となって、馬喰町御用屋敷と改称されましたが、江戸の人々はこの地を永く郡代屋敷と呼んでいました。
江戸通り 神田川に架かる浅草橋 江戸通り 神田川に架かる浅草橋 
江戸通り 神田川に架かる浅草橋 江戸通り 神田川に架かる浅草橋 

浅草橋の下流には柳橋があり、神田川は隅田川に注ぐ。屋形船が多く係留されている。
江戸通り 浅草橋 北詰 旧町名由来 浅草橋 江戸通り 浅草橋 北詰 旧町名由来 浅草橋 

 浅草橋という町は昭和九年(一九三四)に茅町、上平右衛門町、下平右衛門町、福井町、榊町、新須賀町、新福井町、瓦町、須賀町、猿屋町、向柳原町がひとっになってできた。町名は神田川に架けられた橋の名にちなんでいる。
 江戸幕府は、主要交通路の重要な地点に櫓・門・橋などを築き江戸城の警護をした。奥州街道が通るこの地は、浅草観音への道筋にあたることから築かれた門は浅草御門と呼ばれた。また警護の人を配置したことから浅草見附といわれた。
 ここ神田川にはじめて橋がかけられたのは寛永十三年(一六三六)のことである。浅草御門前にあったことから浅草御門橋と呼ぱれたがいつしか「浅草橋」になった
江戸通り 浅草橋 北詰 浅草見附跡 江戸通り 浅草橋 北詰 浅草見附跡 
市ヶ谷御門橋台の石垣石 市ヶ谷御門橋台の石垣石 

この石垣石は、江戸城外堀跡の市ケ谷御門橋台に築かれかれていた石垣の一部です。市ケ谷御門の枡形は現存Lておりませんが、橋台の石垣は、現在もその一部か外堀通りの下に保存されています。
市ヶ谷御門橋台の石垣石 市ヶ谷御門橋台の石垣石 

市ヶ谷橋南詰の交番の裏にある。
市ヶ谷橋 市ヶ谷橋 

市ヶ谷橋の交番脇にあるが、読みにくい。
市ヶ谷橋 魚釣り場 市ヶ谷橋 魚釣り場 

総武線沿いのお濠にあり、子供の頃からあったので、少なくとも50年以上の歴史がある。
   
   
(2)紀尾井町界隈(紀伊藩、尾張藩、彦根藩:井伊家) (見出しへ)
紀之国坂交差点 紀之国坂交差点 

赤坂見附から、弁慶濠沿いに四谷に向けて歩く。左手に赤坂御料地がある。
皇族の住居が集まる一角 

紀伊藩中屋敷跡と言われる。
四谷から赤坂見附、青山一丁目、神宮外苑を結ぶ敷地内に皇太子や秋篠宮などの宮家の住居が有る。
赤坂迎賓館 赤坂迎賓館 

紀伊藩中屋敷跡と言われる。
紀尾井坂 紀尾井坂 

紀伊、尾張、井伊(彦根)の屋敷があったことから、紀尾井坂と言う。赤坂清水谷から四谷見附に向かう坂道である。
この坂を紀尾井坂といいます。「新撰東京名所図絵」には「喰違より清水谷公園の方へ下る坂を称う」また「紀尾井坂は、紀伊家、尾張家、井伊家の三邸此所に鼎立し存しを以って名つく」とかかれています。
彦根藩 中屋敷跡 彦根藩 中屋敷跡 

ニューオオタニホテルの四谷側入口の前にある。
彦根藩 中屋敷跡 彦根藩 中屋敷跡 
井伊掃部頭邸跡の碑 井伊掃部頭邸跡の碑 

碑にもあるように、加藤清正が2代で廃絶した後を井伊家が拝領した。桜田門と三宅坂の間にある。
新宿通りの国会前交差点手前にある。
この公園一帯は、江戸時代初期には肥後熊木藩主加藤清正の屋敷でした,加藤家はニ代忠広の時に改易され、屋敷も没収されまLた。その後、近江彦根藩主井伊家か屋敷を拝領し、上屋敷として明治維新まで利用しています(歴代当主は、掃部頭を称しました)
幕末の大老井伊直弼は、万延元年(一八六〇)三月にこの屋敷から外桜田門へ向かう途中、水戸藩士等に襲撃されました
尾張藩 中屋敷跡 尾張藩 中屋敷跡 

四谷に向かい、紀尾井坂を過ぎてすぐにある。
紀尾井ホール隣の料亭前にある。
 この一帯には、江戸時代に尾張名古屋藩徳川家の麹町邸かありました。寛永14年(1637)に拝領してから藩主や世嗣が一時的に居住するなど様々な使われ方をしました。尾張徳川家は、徳川家康の九男義直に始まる家で、紀伊家(十男頼宣)、水戸家(十一男頼房)と共に、御三家と称され、義直が年長で知行高も多かったため、御三家筆頭となり大名の最高位に位置しました。義直は、慶長8年(1603)甲斐府中藩主、ついで慶長12年(1607)尾張清洲藩主を経て、後に名古屋藩主となり、尾張一国と木曽の山林を領地としました。尾張徳川家は以後、加増を重ねた結果、石高はほぼ61万9500石となり、16代にわたって明治維新まで続きました。明治5年、この地域は紀伊徳川家・尾張徳川家・井伊家の頭文字を合わせて、「紀尾井町」という町名になりました。
尾張藩 中屋敷跡 尾張藩 中屋敷跡 
紀伊藩 中屋敷跡 紀伊藩 中屋敷跡 

紀尾井坂の手前で、赤坂プリンスホテルの入口、弁慶濠脇にある。
赤坂プリンスホテル手前の弁慶濠脇にある。
 この一帯には、江戸時代に紀伊和歌山藩徳川家の麹町邸かありました。明暦3年(1657)の大火の後、この地を拝領しました。紀伊徳川家は、徳川家康の十男頼宣に始まる家で、尾張家(九男義直)、水戸家(十一男頼房)と共に御三家と称されました。頼宣は、慶長8年(1603)常陸水戸藩主、ついで慶長14年(1609)駿河府中藩 主を経て、元和5年(1619)に紀伊和歌山藩主となり、紀伊国と伊勢国の一部を領地としました。紀伊徳川家は、以後、14代にわたって明治維新まで続きましたが、その中で、8代将軍吉宗と14代将軍家茂は、藩主から将軍の座についています,、石高はほぼ55万5000石でした。明治5年、、この地域は紀伊徳川家・尾張徳川家・井伊家の頭文字を合わせて、「紀尾井町という町名になりました。
紀伊藩 中屋敷跡 紀伊藩 中屋敷跡 
(3)薩摩藩邸 (見出しへ)
三田 西郷隆盛と、勝海舟の江戸開城会見の地 三田 西郷隆盛と、勝海舟の江戸開城会見の地 
上中央の薩摩藩邸が会見の地 上中央の薩摩藩邸が会見の地 
薩摩屋敷跡の碑 薩摩屋敷跡の碑 

芝五丁目のバス停の裏で、NEC本社の敷地内にある。揮毫者は西郷隆盛の孫で、代議士でもあった西郷吉之助である。西郷吉之助は、芝五丁目交差点にある江戸開城会見之地の碑の揮毫者でもある。このすぐ傍の芝三丁目バス停近くにも「四国町と薩摩屋敷跡」の碑がある。
東京には紀尾井町の紀伊藩、終わり藩、彦根藩の藩邸跡など多くの江戸の遺構がある。
四国町と薩摩屋敷跡の碑 四国町と薩摩屋敷跡の碑 

NEC本社の北側、セレスティンホテルの西側の在宅介護支援センターの前にあり、薩摩藩邸の北側にあたる。
四国町とは、周囲の四国の藩邸があったことから名付けられた。
東京には紀尾井町の紀伊藩、終わり藩、彦根藩の藩邸跡など多くの江戸の遺構がある。NEC本社の北側に薩摩屋敷跡の碑や、芝五丁目の交差点には江戸開城会見之地の碑がある。
四国町と薩摩屋敷跡の碑 四国町と薩摩屋敷跡の碑 
四国町と薩摩屋敷跡の碑 四国町と薩摩屋敷跡の碑 
(4)江戸の災害 (見出しへ)
永代橋由来 永代橋由来 

元禄11年(1698年)に上野寛永寺本堂の余材を使って作られた。当初は今より100m上流の深川の渡しに作られた。
文化4年(1807年)8月に、深川八幡の祭礼の人出で橋が崩落、多くの死者が出た。
永代橋由来 永代橋由来 
海福寺 永代橋崩落横死者供養塔 海福寺 永代橋崩落横死者供養塔 

文化4年(1807年)8月に永代橋が崩落、440名が溺死した。深川にあった海福寺に供養塔が作られたが、明治43年(1910年)に目黒に移転、供養塔も移った。
海福寺 永代橋崩落横死者供養塔 海福寺 永代橋崩落横死者供養塔 
巣鴨 本妙寺 明暦の大火(振袖火事)供養塔 巣鴨 本妙寺 明暦の大火(振袖火事)供養塔 

明暦3年(1657年)に、本妙寺から出火した。江戸の半分以上を焼いた大火で、曰く因縁のある振袖を焼いたことが出火の一因と言われる。
目黒雅叙園内の「お七の井戸」 目黒雅叙園内の「お七の井戸」 
目黒雅叙園内の「お七の井戸」  目黒雅叙園内の「お七の井戸」 
州崎神社 州崎神社 

徳川5代将軍綱吉の生母桂昌院の守り神として崇敬され、元禄13年(1700年)に江戸城中より遷された。
州崎神社 波除碑 州崎神社 波除碑 

寛政3年(1791年)9月4日、深川州崎一帯を襲った台風による高潮により、付近一帯の家屋がことごとく流され、多くの死者、行方不明者が出た。幕府は州崎弁天社から西の一帯の東西285間、南北30余間、総面積5万5千坪余りを買い上げ空き地とし、これより海側に人が住むことを禁じた。そして空き地の東北地点(州崎神社)と西南地点(平久橋袂)に波除碑を建てた。当時は高さ6尺、角1尺であったが、材質が砂岩で脆く、関東大震災と戦災で破損が著しい。
州崎神社 波除碑 州崎神社 波除碑 
平久橋 波除碑 平久橋 波除碑 

州崎神社の波除碑と対を成す。
平久橋の袂にある碑 平久橋の袂にある碑 

手前から、上部2/3が失われた平久橋の碑、戦災殉難者供養塔、津波警告の碑、波除碑である。
(5)犬屋敷(大久保、中野) (見出しへ)
大久保の犬屋敷跡 大久保の犬屋敷跡 

徳川綱吉の生類憐みの令により、犬を養った屋敷跡。現在は第8機動隊などがある。
中野犬屋敷跡 中野犬屋敷跡 

徳川綱吉の生類憐みの令により増えた野犬を収容した。公園内には記念碑はないが、探す人が多かった。
中野犬屋敷跡の碑 中野犬屋敷跡の碑 

中野区役所前の工事中のカバーの中にあり、分かり難い。
中野犬屋敷跡の碑 中野犬屋敷跡の記念像 
(6)四谷怪談 於岩稲荷 (見出しへ)
四谷怪談 於岩稲荷 四谷怪談 於岩稲荷 

四谷怪談のお岩を祀ったもので、住宅街の中にある。狭い道をマップを持った大勢の人がうろついたため、何事かと住民に聞かれた。
四谷怪談 於岩稲荷 四谷怪談 於岩稲荷 
四谷怪談 於岩稲荷 四谷怪談 於岩稲荷 
四谷怪談 於岩稲荷 四谷怪談 於岩稲荷 
四谷怪談 於岩稲荷 四谷怪談 於岩稲荷 
四谷怪談 於岩稲荷 四谷怪談 於岩稲荷 

於岩稲荷から少し進んだ所に於岩稲荷田宮神社がある。
四谷怪談 於岩稲荷 四谷怪談 於岩稲荷 

水かけ福寿菩薩の案内板である。
四谷怪談 於岩稲荷 四谷怪談 於岩稲荷 

文政8年(1825年)に四世鶴屋南北作の歌舞伎「東海道四谷怪談」が大評判になった。
四谷怪談 於岩稲荷 四谷怪談 於岩稲荷 

お岩稲荷霊堂再建記念碑で、本堂が戦災に遭って焼失したため、栃木の薬師堂を移築、再建した。
四谷怪談 於岩稲荷 四谷怪談 於岩稲荷 
四谷怪談 於岩稲荷田宮神社 四谷怪談 於岩稲荷田宮神社 
(9)その他の遺構 (見出しへ)
玄冶店(げんやだな)跡 玄冶店(げんやだな)跡 

人形町交差点にあり、お富さんと与三郎の話で有名な「与話情浮名横櫛(よはなさけ うきなのよこぐし)」の舞台となった。
玄冶店(げんやだな)跡 玄冶店(げんやだな)跡 

徳川家光の医師であった岡本玄冶の拝領屋敷があった。
元吉原跡 元吉原跡 

人形町交差点と水天宮の間にあり、読み難いが元々遊郭があったが、明暦3年(1657年)の明暦の大火(振袖火事)の後に浅草の山谷に移った、と書かれている。
安藤広重住居跡 安藤広重住居跡 

日本橋手前にある。安藤広重(1797年〜1858年)が、嘉永2年(1849年)から死ぬまでの約10年間住んでいた。「名所江戸百景」は、この地での代表作である。
賀茂真淵県居の跡 賀茂真淵県居の跡 

明治座の傍で、清洲橋通りと金座通りが交差する久松町交差点のレストランの壁にある。
椙森神社 椙森神社 

創建は平安時代の平将門の乱に藤原秀郷が戦勝祈願をした所と言われる。江戸時代しばしば火災に会い、再建に富くじを発行、人気があった。
椙森神社 椙森神社 
椙森神社傍の歩道の飾り 椙森神社傍の歩道の飾り 

堀留一丁目で、富くじの抽選をしている図である。
春日町 春日局像 

春日局が拝領したことに因んで春日町と名付けられた。本郷は、「春日町の本郷」の名前から来ている。
関東郡代屋敷跡 関東郡代屋敷跡 

浅草橋の南詰にあり、江戸時代に関東地方や東海地方の天領を管理した関東郡代の役宅があった。初代伊奈忠次が徳川家康に任じられて以来、12代に亘り郡代に就いた。
蕃書取調所跡 蕃書取調所跡 

安政3年(1856年)に設立され、海外事情の調査と、教育にあたった。後の東大の前身である。九段会館に近い所にある。
蕃書取調所跡 蕃書取調所跡 



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