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秋の天龍寺散策H251007




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長辻通(府道29号) 天龍寺 総門 長辻通(府道29号) 天龍寺 総門 
長辻通(府道29号) 天龍寺 総門 長辻通(府道29号) 天龍寺 総門 

天龍寺

 霊亀山と号する臨済宗天龍寺派の大本山で、釈迦如来を本尊とする。平成六年(一九九四)に世界文化遺産に認定登録された。
 足利尊氏が後醍醐天皇の菩提を弔うため、暦応二年(一三三九)、夢窓疎石を開創に迎え創建した寺院で、当初は暦応資聖禅寺と称されたが、尊氏の弟直義が見た金龍の夢に由来し、天龍資聖禅寺と改められた。その後、寄進や天竜寺船の貿易収支により伽藍が整えられ、至徳三年(一三八六)には、京都五山の第一位を占め、大いに隆盛を極めた。しかし、度重なる災火により堂宇を焼失し、現在の諸堂は明治以後に再建されたものである。夢窓疎石の作庭と伝えられる池泉回遊式庭園は、曹源池を中心に遠景の嵐山と近景の亀山の借景を巧みに取り入れており、国の史跡及び特別名勝第一号に指定されている。また、寺宝として、絹本着色夢窓国師像など数多くの重要な文化財を蔵している。
天龍寺 中門(桃山時代) 天龍寺 中門(桃山時代) 
天龍寺 中門(桃山時代) 天龍寺 中門(桃山時代) 
天龍寺 参道を西進 天龍寺 参道を西進 

参道の右側(北側)に塔頭が並ぶ。
天龍寺 法堂 天龍寺 法堂 

元治元年(1864)の兵火にて焼失、その後明治になり江戸後期建立の雲居庵禅堂(選佛場)を移築、禅宗七堂伽藍のひとつとした。

法堂とは説法堂の意であり、住持が仏に代って衆に説法する場所。
寄棟造・浅瓦葺、東を正面とし天井は鏡天井で鈴木松年により明治32年(1899)に描かれた雲に乗る龍の絵であったが、平成9年(1997)に法堂移築100年・夢窓国師650年遠諱記念事業として加山又造画伯により新しく雲龍図が制作された。

正面須弥壇には釈迦三尊像を安置し、後の壇には光厳上皇の位牌と歴代住持の位牌および開山夢窓疎石と開基足利尊氏の木像が祀られ仏殿としても使用されている。
天龍寺 本玄関、庫裡改修工事のお知らせ 天龍寺 本玄関、庫裡改修工事のお知らせ 

御参拝の皆様へ

今般「本玄関・庫裏」改修工事を行うこととなりました。
工事期間中「諸堂参拝」は休止とさせていただきます。
しばらくの間ご迷惑をおかけいたしますがよろしく
お願いいたします
 尚、「庭園参拝」は通常通り行っております。
天龍寺 大方丈 天龍寺 大方丈 

大方丈と小方丈(書院)からなる。
大方丈は明治32年(1899)、小方丈は大正13年(1924)の建築である。
大方丈は天龍寺最大の建物で、正面と背面に幅広い広縁をもち、さらにその外に落縁をめぐらせる。
正面の「方丈」の扁額は関牧翁老師(天龍寺第8代管長)の筆。
大方丈の本尊は釈迦如来坐像【重要文化財】。
平安時代後期の作とされ天龍寺の造営よりもはるかに古い。天龍寺が受けた都合8度の火災のいずれにも罹災せず助けられた仏像で、天龍寺に祀られる仏像の中で最も古い像。
内部は六間取り(表3室、裏3室)の方丈形式で、中央の「室中」は釈迦尊像を祀る48畳敷き、左右の部屋はともに24畳敷きで3室を通して使うこともでき、欄間の下に襖を立てれば個別にも使用できる。
東は中門に対し、西は曹源池に面する。東側が正面で曹源池側が裏となる。
東西を仕切る襖の雲龍の絵は昭和32年に物外道人によって描かれたもの。物外道人とは若狭物外といい、明治20年秋田県に生まれ、東京芸術学校を卒業後、山元春拳に弟子入りするも自ら絶縁し、富岡鉄斎門下の山田介堂に学んだ富岡鉄斎唯一の孫弟子。
天龍寺第8代管長である関牧翁老師の友人で、昭和32年(1957)にこの方丈襖絵を描き上げ、4ヵ月後に70歳で没し、「画龍院如意物外居士」の法名が付けられた。
天龍寺 大方丈 天龍寺 大方丈 

方丈

この建物は方丈と称し禅宗様式伽藍の一つで住職の居室であります。中央にまつられている本尊様は藤原時代作の釈迦如来像です。
天龍寺は創建以来六百五十年間に八回の火災がありましたが、このお釋迦様はその火難を蒙らず現存されている天龍寺に祀られている佛様の中で最古の尊い佛様です。
天龍寺 大方丈の横を通り曹源池庭園へ 天龍寺 大方丈の横を通り曹源池庭園へ 
天龍寺 曹源池庭園 天龍寺 曹源池庭園 

約700年前の夢窓国師作庭当時の面影をとどめており、わが国最初の史跡・特別名勝指定。
中央の曹源池を巡る池泉回遊式庭園で、大堰川を隔てた嵐山や庭園西に位置する亀山を取り込んだ借景式庭園でもある。
庭園全体像は寛政11年(1789)に刊行された秋里離島による「都林泉名勝図会」に描かれた姿をよく残している。
方丈からみた曹源池中央正面には2枚の巨岩を立て龍門の滝とする。龍門の滝とは中国の登龍門の故事になぞらえたもので、鯉魚石を配するが、通常の鯉魚石が滝の下に置かれているのに対し、この石は滝の流れの横に置かれており、龍と化す途中の姿を現す珍しい姿をしている。
曹源池の名称は国師が池の泥をあげたとき池中から「曹源一滴」と記した石碑が現れたところから名付けられた。
天龍寺 曹源池庭園 天龍寺 曹源池庭園 
天龍寺 曹源池庭園(動画) 天龍寺 曹源池庭園(動画) 

この写真は動画のスナップショットです。クリックするとダウンロードされますので、動画を楽しむことが出来ます。

上映時間 21秒
サイズ 3.33MB
天龍寺 曹源池庭園 天龍寺 曹源池庭園 

世界文化遺産 史蹟・特別名勝
 曹源池庭園
  開山夢窓國師作庭

王朝文化の優美さと武家文化の荒々しさを巧みに融合した庭である。
正面の枯山水の三段の石組は龍門の瀧と云いこれは中国の故事に由来する。
手前の石橋は、日本最古の橋石組で右の石組は釈迦三尊石と称し釈迦如来(中央)・文殊菩薩(左側)普賢菩薩(手前下側)を表現している。
曹源池の名称は国師が池の泥をあげたとき、池中から「曹源一滴」と記した石碑が現れたところから名付けられた。
天龍寺 大方丈 雲龍図 天龍寺 大方丈 雲龍図 
天龍寺 大方丈 雲龍図 天龍寺 大方丈 雲龍図 

雲龍図

若狭物外画伯筆

明治二十年(一八八七)秋田県に生まる。長じて東京芸術学校に入学後山元春挙画伯の春挙塾に入るも自ら絶縁し、富岡鉄斎の俊足の山田春堂の弟子となる。富岡鉄斎の唯一の孫弟子である。
物外道人、物外山人、物外文人と号す。
先代管長関牧翁老師の親友で昭和三十二年(一九五七)画龍点晴と寄進し、此の後4ヶ月後寂す。七十歳
「画龍院如意物外居士」贈る。
天龍寺 曹源池庭園 天龍寺 曹源池庭園 
天龍寺 小方丈 天龍寺 小方丈 

小方丈は書院で2列に多くの部屋が並び、来客や接待や様々な行事、法要などに使用される。
天龍寺 庭園を散策 天龍寺 庭園を散策 

小方丈脇の階段を上り、拝観コースに従って庭園を散策する。
天龍寺 多宝殿 天龍寺 多宝殿 

小方丈の西北から上り坂に併せて屋根付きの廊下が設けられ、右手に祥雲閣や甘雨亭の茶室を見ながら上りきったところにある。
後醍醐天皇の尊像を祀る祠堂で、前に拝堂をもち、後ろの祠堂とを相の間でつなぐ。入母屋造の屋根とも調和し、中世の貴族邸宅を思わせる。
昭和9年(1934)に建築されたもので、拝堂には正面に1間の階段付き向拝を持ち、あがると広縁になる。
この場所は亀山上皇が離宮を営んだ際、後醍醐天皇が学問所とした地で、現在の建物は昭和9年当時の管長であった関精拙老師が完成させたもの。
後醍醐天皇の吉野行宮時代の紫宸殿の様式と伝えられる。
中央に後醍醐天皇の像、両側に歴代天皇の尊牌が祀られている。
天龍寺 多宝殿 天龍寺 多宝殿 

後醍醐天皇聖廟多寶殿

この地は禅宗最初の道場檀林寺の旧跡にして後嵯峨、亀山両天皇が離宮を造営せられた所で後醍醐天皇が御幼少の頃勉学せられ御成人せられた跡です。
延元四年(一三三九)天皇が吉野の行宮ではるか京都を望み、お隠れになったので光厳上皇は院宣を下して御菩提のために離宮を革めて禅刹天龍寺とされました。
創建以来八回の火災に遭い、昭和九年当時の管長精拙和尚が現在の聖廟多寶殿を完成しました。
建築様式は吉野朝時代の紫宸殿づくりで中央に後醍醐天皇の御尊像を両側に歴朝天皇の尊碑が奉安してあります。
天龍寺 庭園を散策 天龍寺 庭園を散策 
天龍寺 大方丈 天龍寺 大方丈 

拝観コースを下ってくると大方丈横に出てくる。
天龍寺 参道を東進、中門へ 天龍寺 参道を東進、中門へ 



 
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